2013年11月13日水曜日

タイトルを「けん玉活動録」に。

タイトルを「けん玉活動録☆藤原一生先生を慕って」に変更しました。

1990年代の回顧録、藤原一生先生の特別講演とをアップしてきました。

今後は、2010年までの活動録をアップしていきたいと思います。

2013年9月14日土曜日

おかげさまで3,000アクセス

このブログは藤原一生先生の講演内容を紹介しています。
おかげさまで3,000アクセスを突破しました。

このブログは、最初、けん玉回顧録として立ち上げたブログです。
未来への道を開く時に、まず過去を見直す、過去を整理することが大切だと思い立ち、ブログを始めたのでした。

私が社医学の学生でけん玉を始めたのは、佐藤さんがけん玉を教えてほしいと話しかけてきたところから始まりました。

佐藤さんが入学してから単にけん玉を練習し始めたのではなく、 すぐにけん玉に関する本を買ってきて、さらに藤原一生先生の家にまで出かけて、けん玉に関する情報を集めてきたところから、本格的なけん玉への練習へと進んだのでした。
けん玉シリーズ1〜4(小学館)

私はマイペースでけん玉をしていたのですが、佐藤さんはけん玉のビデオも入手して、けん玉の技を分析したり、どうしたらできるのか?を考えながらのけん玉の実践が始まったのでした。

上手な人のけん玉を見るということは、非常に助けになる、上達の可能性への扉を開くという感じがしたものでした。


2013年7月2日火曜日

藤原一生先生の特別講演の一部をyoutubeにアップ

藤原一生先生の特別講演の一部をyoutubeにアップしてみました。
文部大臣杯の許可を大臣から直接いただいたエピソードの内容を一部紹介します。


動画の内容は時々動画が途切れていますが、その内容は以下の通りです。
 ↓ ↓ ↓

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文部省に行って呼ばれるまで

 次の日、私、とにかく行きました。定の時間通りに。
 そうすると、文部省というのはい昔のビルでね。ゴキブリがいっぱいっているようなものすごいいビルですね。あんな虎ノのいい所にあるのにね。
 2に上がると急に赤いじゅうたんが敷いてあるんだよね。赤いね。い人がくところだけ、じゅうたんが敷いてあるんだよね。
 僕はね、民街で育ったせいか、ひねくれ屋なんだよね。そういうのがね。丸めて、どかしてきたくなっちゃうんだよね。で、あそこのじゅうたんを丸めてどかしたら、どこかにれて行かれちゃうんだよね。じゅうたんをいて行きましたが、待っていること、30分くらいですね。
 そのに、はひねくれ屋ですから、腕時計をこう外しまして、それで、時計をこうていたんです。テブルの上に置いてね。はどういうか、んでいる列のところには置かないんですよ。なぜか知らないけど。
 あのよくカメラマンなんかが、理大臣なんかが部屋に入っていくのをフラッシュたいて写すでしょう?ああいうような狭い所で横にね、きれいなソファがあったんですよ。1人は座れるね。中にいる声がみんなこえるんです。文部大臣の声が。
 で、ある人はい学校の総長ですね。秘などをれて。
「なになによろしくおいします。」ていたら、15秒で出てきたね。
 だいたいね、くてもね30秒から45秒。
 ちょっといなと思ってもね、1分30秒くらいね。
 それから、一番い人で、局とかいろいろな打ち合わせですね。で、それでせいぜい2分くらいですね。
 突然んできたのが、あの福の方で自民党の議員選挙で落かなんかするんだよね、衆議員かなんかが。それで、大ぎしているちょうどそのに当たったんですね。そのに先議員が来られましたね。そので一番くて3分でしたね。
 ただあのに、西岡先生がいなと思ったのは、先を入り口まで送って、廊下の所まで。それで、「今日はどうもご苦労様でした。」丁重な丁さで、ビックリしたんですね。それから、んで皆さんに「もう少しでわりますから」って、政治家だなあっててましたね。
 その次にいよいよ、が呼ばれたんです。

文部大臣とのやり取り動説

 それで、私がここに座っていると、西先生がここで、こうやってね。
 そのに、一番最初に大臣の第一声が、何を言われたかというと、
「先生はなぜ、今までもっと早くここにお座りにならなかったのですか?」と言われたんですね。で、は、「それは天がかなかったんです。」って言ったんですね。
「天動説です」って言ったんです。天がかない。天。ご自分でね、膝に字をいておられるんです。それをこうね、ぱっと逃さないのが作家ですね。
 文部大臣の指先がね、字をいていましてね、
一生;あっそれいます。それは「童」っていう字です。それは山形の天童。かに童のようになると自然にピシッと力が入る意味もありますが、私らの合は、ガリレオと同じで、天がかなかったっということなんです。
大臣;あっ『動』ですか?
 まるで国時間でしたね。そういう瞬というのは、文部省の記録の中に残すべきではないですかね。
 初めて、そこで、字の意味、日本の意味の深い、日本の美しさについての大臣と自身とのやり取りがあったんです。
大臣;それはどういうことですか?
と言われたから、
一生;私は原文平さんとか北杜夫さんとか、い人いっぱい知っております。そういう人たちの政治力で、からここに座るのはできたでしょうが、はそういうのが嫌いなんです。自然に座りたい。天にれられて、ここに座る期を待ってたんです。それが、今日来たんです。
大臣;あ、そうですか。

文部大臣室で、感の「けん玉指

 で、その次に、
大臣;今日来た目的はそれはわかっていますから、言わなくても結構です。先生には文部大臣杯を差し上げます。
 そのに大臣が「大きいのが良いですか?小さいのが良いですか?」
 これは二つ目の質問ですね。
 私は当然、文部省が大きなトロフィをくれると思ったんですよ。
 私はペレのテレビのシンがぱっと浮かんで、待てよ。ここで大相みたいにこんな大きなトロフィをくれ!なんて言うと、藤原一生は欲深いな。と思うんじゃないかと。
 この人はしているな。と思うから、

一生;はっ、大臣、は小さなカップが欲しい。ペレがキスするようなのが良いです。と言ったら、
大臣;ああ、先生は欲がないですね。
 これはしめたな。当たったなあと思ったんですね。ところがそうではないんですよね。わって、全部あの事官からもらったら、1枚のきれなんですよね。文部大臣杯の名を使用して良いというなんですね。
 で、局、文部大臣杯に、文部省に、文部大臣杯に相しいトロフィは、ご自分で作りなさい。ということなんです。あれにはビックリしたんですね。
 ですから、今、こんなに立派な100のけん玉トロフィね、意地でも作りましたね。すごいの。
 今年も8月の23日かな。サンシャインでやりますから、に来てください。
 私は、文部大臣室にいたに、正った時間28分。これはもう忘れないですね。え、本当に忘れないタイムですね。
 これは文部省の、文部省付きの秘官が言ったのですが、
 「こんなにく、滞空記録って言っていいかな?表が思いつかないんだけど、で言えば、滞空記録ですね。こういうのは珍しいです。」と言ってたんです。
 で、それはどういう事かというとね、秘官が何かサインを出すんですね。こうやって何かね。そうすると時間ですから。って催促なんですね。そしたら、大臣が「えっ、ちょっと待って。休憩取らせてよ。今童心にかえってるの!」と言われてね。
 そして、あと、ふりけんのコツを教えましたね。
 いいですね。文部大臣室で、大臣に教えて。西さんがやって、パッと「おっ!おぬし、やるじゃないか!」って、、思わず言っちゃった。「おぬし」って。で、笑ってたね。友ですね。うまいじゃないですか!
大臣;先生、はね、子どものね、ガラスで削ってんだんです。
一生;やるやる!大丈夫だ。おっ。そこだ!そこで引けば入ります!
入っちゃった!うれしかったですね。それで28分です。

2013年6月18日火曜日

冊子は100冊突破しました。

手作りの冊子「けん玉 人生の解剖」を作っては、いろいろな人に渡していますが、
気がつけば100冊。

今後は210冊を目指して。

1日に作れるのはせいぜい3冊。
1日平均1冊程度ですから、
半年ほどすれば、目標達成するかなあと思います。

世界けん玉選手権である
「藤原一生杯」には出場できないですが、
応援する意味で、この冊子を寄贈する予定でいます。

2013年5月1日水曜日

「けん玉 人生の解剖」の冊子の表紙

冊子「けん玉 人生の解剖」の表紙はこんな感じになりました。
A5サイズ、B5サイズ、A4サイズの3つのサイズを作成しています。
関心のある方などに手渡ししていまして、現在80冊を手渡しました。

基本はB5サイズで、中は35ページになりました。

もう少し改訂を考えていますが、
1日1冊〜3冊の手作りのため、のんびりとじっくり取り組んでいます。
まずの目標は100冊作成と配布といったところです。

2013年4月12日金曜日

おかげさまで2000アクセス

おかげさまで
2000アクセスとなりました。
藤原一生先生の講演を通して、私にも何かできる!という元気をいただいていけたらと思います。
「あせらず、あわてず、あきらめず 」

オカリナ演奏の場面

2013年3月15日金曜日

小冊子(けん玉人生の解剖)を作成中(序文)

1991年の藤原一生先生の特別講演会をアップしてきましたが、これを1冊の小冊子に再編集しているところです。
序文を再編集して、以下のように書いてみました。

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本書は、日本けん玉協会会長で、映画「南極物語」の原作者でもある藤原一生(ふじわらいっせい)先生が、約21年前、私が在籍する専門学校で行ってくださった特別講演、「人生の解剖」を書き起こしたものです。
藤 原先生は、唯一人で日本けん玉協会を創立され、子供の遊びだったけん玉をスポーツとして機能させる全国共通のルール作りの先頭に立ち、ご自宅を協会の事務 所にして、この競技を切り開かれた第一人者です。小学生の全国大会、野球でいう甲子園のような大会を厚生省の認可の元で行いたい!という夢を、もの凄い情 熱で推進し、実現もされました。

私と先生との出会いは、「けん玉」との出会いから始まります。
高校の物理の先生から「吉本君、物理が好きならけん玉をしてみたらどうか?」と勧められ、近所のおもちゃ屋さんで買って始めた遊びでした。
24歳 で専門学校の社会医学技術学院の夜間部に入学した折、クラスの仲間内でけん玉が流行り、それが発展して課外活動の一つとして「けん玉倶楽部」を創設するこ ととなり、成り行きで部長に収まりました。文中で、佐藤君、吉本君と言われている箇所があります。佐藤君が副部長で、事実上のリーダーでした。学校の文化 祭(ふくろう祭)で藤原先生に講演していただくといのも、佐藤くんの提案でした。『徹子の部屋など』などテレビにも出演し忙しく過ごされている毎日、無理 だろうと思いながらご自宅にお願いに行き、即答で快諾してくださったのを、思い出します。

医療に携わる学生向けに「人生の解剖」と題した講演は、藤原先生にとっても特別だったものだったかもしれません。
深川のスラムで、アル中の親に置き去りにされ、妹も失った少年が教会の牧師に救われて成人し、出征し、最前線で弾も当たらず無事復員することができたという お話。「死んでもいい、名もない、誰も待ってない」自分が何故生かされているかという先生の問いかけ、「生きている間は奉仕」という決意と、その思いに裏 打ちされたけん玉普及にかける情熱を知りました。「けん玉って、すばらしい!」と思えた会でした。
そこから、生かされているものとして自分も奉仕していこう、けん玉を医療に活かす道を探ろうという目的が、私にも生まれたのです。
不幸な境遇の中にあって、さらに戦争を体験して、どれほど平和を望んだことでしょうか。藤原先生がよく言われた「けん玉のひびきは、平和のひびき!」という言葉は、他の誰よりも実感のこもったものでした。

藤原一生先生は、1994年(平成6年)227日に亡くなられました。すでに18年が経とうとしています。
この講演を再び文章として興そうと思ったきっかけは、2012年 5月に日本けん玉協会主催の普及員講師取得のための講習会が行われた後の、懇親会でした。その席で、『世界へのけん玉伝承』という藤原先生の願いを引き継 がれた矢野関西総支部長から、8月に大阪で行なう世界けん玉選手権大会を「藤原一生杯」とする予定との話をうかがったことにあります。

「藤原一生杯」を応援するため、私に何ができるだろうか?と思った時、18年の歳月を経て藤原先生を知らない世代がけん玉をする時代になり、インターネットで「藤原一生」を検索してもあまり情報が得られない事実を知りました。そこで、「人生の解剖」をご紹介することで、藤原一生先生を知っていただこうと考えたのです。

録画ビデオを文章におこそうと思い立った時、偶然にも藤原先生の奥様から私の家族への励ましのメッセージをいただきました。ビデオを文章化すること、インターネットなどで公表することの許可を、お礼とともに電話で申し出たところ、快く受け入れていただき、発刊の運びとなりました。
講演は話し言葉であり、極力、そのままの言葉をのせましたが、わかりにくい箇所もあり、表現を変えた箇所がありますことをご了承ください。

「けん玉のひびきは、平和のひびき!」私はこの言葉を心に刻んで、平和は家庭から、親子三世代が共に支え合い、けん玉を通して、平和への輪が広がることを願う次第です。
 ご協力いただいた皆さんには、このような冊子ができたことを感謝申し上げます。特に、藤原一生先生と敏子夫人およびご家族に感謝申し上げます。

2013年2月22日金曜日

日本けん玉協会創立のいきさつ

日本けん玉協会を創立し、初代の会長として活躍されていた藤原一生先生。
著書で紹介されている文章を紹介します。

ブログ「けん玉と健康」で紹介していますのでご覧ください。↓
http://health-kendama.blogspot.jp/2011/10/blog-post_09.html

藤原先生が腹膜炎にならなかったら、日本けん玉協会はなかったのかも?

健康のために始めたけん玉。
けん玉は、ただのおもちゃではない!
何かしらもっと大きな力を得たのかもしれません。
組織を産み出すには、相当なエネルギーがいります。

ちなみに、私が最初に手にしたけん玉は、けん玉愛好会が推奨していたけん玉で、糸をけんにつけるところが全く異なっていました。

2013年2月18日月曜日

1989年12月の藤原一生先生の記事


藤原一生先生から直接いただいた記事です。
特別講演会をするのに何か資料が欲しいと頼んだところ、この記事をいただきました。特別講演のお願いに自宅にうかがった時のことです。
 
19891212日の新聞
日本けん玉協会支部1,000達成
田無の藤原一生会長
愛情注ぎ15
 遊びから競技へ
文部省も後援
海外にも愛好者

 NKKといっても、鉄鋼大手のことではない。「日本けん玉協会」の略称である。かつては正月だけの遊びだったが、いま小学生から大人まで二百万に近い競技人口だ。この競技を十五年かけて隆盛に導いてきた協会本部が、田無市にある。愛好者の支部は全国の学校はおろか文部省の職場にまであり、海外ではアフリカのザンビアにまでおよんで、支部数は現在1,000。たかが遊び、とは言えないような勢いだ。
 協会長は、田無市北原二丁目、児童文学者の藤原一生さん(65)。昭和四十七年の秋、近所で「けん玉」を持ちながら、うまく遊べない子供に教えたことから、けん玉の普及にのめり込む。「小学校の五年まで、しょっちゅう遊んでましたからね。ああこれは伝承させなきゃと思ったんです」
 「けん玉」は海か陸のシルクロードを経て、江戸中期の安永年間には日本に入ったようだ。藤原さんの研究では、船乗りがたいくつしのぎに考え出したもので、当初の形は「猪口の形して、柄あるものなり。それに糸をつけてさきに玉を結びたり」(天保時代のプレイガイド、「喜遊笑覧」)。その後、大正十年に広島呉市の人が現在のような形にしてから、爆発的な人気を呼び、男の子の遊びとして定着したという。
 名刺には「十段」とある。「実際は六段でしょうね」。けん玉の面白さは、「むずかしい遊びだけに、成功したときの感激。あるいは緊張感、集中力」。
田無市の青少年委員として教え始めたころ、腹膜炎で入院。小水とガスが出ずに苦しんでいるとき、「けん玉」と遊んで、苦境を脱した体験もある。「体にもいいのに、なぜけん玉がすたれているのか」、それからしばらく、家人を嘆かせるほどの全国行脚で、普及に熱中した。
 協会の正会員、五千人。五人以上から支部の結成を認める。競技用のけん玉をメーカー二社に作らせ、段位制度を作った。毎年一月に『NKK杯』、五月末に「全日本けん玉道選手権大会」など。今年から始めた少年少女の選手権大会には、文部省の後援がついた。
 千番目の支部は、大阪府立堺工業高校の生徒たち。協会の認定する初段は、「けん」の部分のタテ(中皿)とヨコ(大皿)の皿に交互に玉を乗せる「もしもしかめよ」の歌に合わせた「もしかめ」を二百回できることだそうだ。

藤原一生先生からいただいた資料(1989年9月)


1989年(平成元年)9月の資料です。
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藤原一生の<集中度>の分析  
田無市における藤原一生の世界
            田無市・市民憲章制定審議委員 昭和511019日〜52年1月
            文化財保護委員 昭和44年9月24日〜52年9月
            市立・図書館協議会委員 昭和5012月1日〜5811
            田無・百人一首を楽しむ会・創立 他の人に託し、これも10

ペン生活<子どものための作家生活> 昭和29年4月より現在
南極のタロ・ジロ運動 昭和34年より現在
けん玉の世界 “教材への夢” 15
 昭和50年5月5日 日本けん玉協会<創立> 十年史発行
光が丘NHKカルチャーセンター講師 62年4月〜63年3月までの1年間

2013年2月16日土曜日

藤原一生先生からいただいた資料(自己分析)1991年10月


Weekly report(週報)東京田無ロータリークラブ(19911992
平成3(1991)年10月3日発行
 自己分析   藤原一生氏


創作前                                                                    
作家として、ひとこと。
いざ<小説>、あるいは<童話>でも、書く以前はとまどう。何をかこうか、どこを小説の舞台にしようか。主人公は女性がよいか、少女がよいか。テーマは、なンだ。
こうして、まよいの小路に吸いこまれていく。ほんのりと頭に浮かんでいた“モチーフ”も次第にくずれだす。〆切が迫ってきて、いらいらしだす。苦しみだす。これはペンで生きているもの書き<作家>だけの苦闘ではない。皆さんも同じことがいえる。<書く><書かされる>という作業はさまざまな形で不意に装いかかってくるものだ。
このエッセイにしても同じことがいえる。とうぜん、〆切日が指定される。それがプレッシャーの動機となる。
そういう場合、どうしたらよいか。
自分を原点にもどすことだ。俺にはいったい何があるのか、“何をいい多野か”.何を書こう・・・・・・でなく、〔何を書かずにはいられない〕というものへの発見に心を、目をむけることだ。書くものが、現在の自分なのだ。それを今、さらけだせるか否かにかかっているのだ。
創作以前の苦闘はこうして時と闘い、光をみいだいてゆく。
                                             
動機
“けん玉”の世界でも同じことがいえる。けん玉は日本に渡来したのが安永6〜7年(1777年)と嬉遊笑覧という古い本に記録されている。
私が“けん玉”をはじめたのも《昔の遊びを次の世代に伝えよう》という“伝承“活動にすぎなかった。それだけなら、今も、伝承の世界だけで終わっていたにちがいない。
同じけん玉で、同じルールで、日本じゅうどこへ行っても遊べるようにしたい!ぽつんとともった小さな灯のあかりの輪が次第に大きくひろがり、日本けん玉協会の誕生となり(昭和50年5月5日)、〈タイム競技〉とかさまざまな“けん玉におけるスポーツ用語”が生まれ全国へはばたいていった。1991年〈平成3年〉10月5日発行の“けん玉通信”を見ると全国の支部数が1,228となっている。
田無で、ひとりでポツンをはじめた会が今や200万人の大集団となり、いま社団法人化に作業をすすめている。田無は、その、世界へはばたく日本けん玉協会の発祥の地として、日本じゅうにその名を知られている。

2013年2月10日日曜日

講演から4日後の新聞記事「タロ・ジロを再び一緒に」

藤原一生先生が、講演の中で船の科学博物館でのエピソードがありましたが、その内容が記事として出されたのは講演から4日後の11月7日でした。

読売新聞 1991年(平成3年)11月7日の記事は以下の通りです。

タロ・ジロを再び一緒に

2頭へのつのる、熱い思い

「宗谷」ーーー水辺からの報告:カラフト犬

 作家の藤原一生さん(67)(田無市)が、品川区の「船の科学館」に係留されている「宗谷」を訪ねたのは、十月末のことだ。
 一度だけ、「宗谷」の内部を見学したのが、昭和三十年代半ば。第四次南極観測隊が航海に出かける際だったから、ほぼ三十年ぶりの再訪になる。

「飛行甲板には、どうやって行くんですか」。案内役の同館職員、緋田(あけだ)武男さん(40)をせかせながら、甲板にでた藤原さんは「ここで犬たちを運動させたんですよ」と、声をあげた。
 昭和三十四年七月の発売すぐにベストセラーになった「タロ・ジロは生きていた」。その著者が、当時フリーのライターだった藤原さんである。
 タロとジロは、カラフト犬の兄弟だ。三十一年出発の第一次南極観測隊は、そりを引くカラフト犬を二十頭同行させた。
 昭和三十三年二月。「宗谷」でやってきた第二次隊は、悪天候に阻まれて越冬中止。西堀栄三郎隊長以下十一人の第一次越冬隊員も、飛行機で救出という事態となり、犬たちのうち十五頭が置き去りにされた。
 翌三十四年、「宗谷」は再び南極へ。一月十四日、無人の昭和基地にヘリコプターで向かった隊員が、氷雪の上で二頭の犬を見つける。タロとジロだった。
 日本を、世界を駆け巡ったニュース。藤原さんは当時、出版社に”南極探検”をまとめるようにいわれ、新聞記事を集めていたから、さっそく、タロ・ジロの物語の執筆にかかった。
 「四百字詰めで二百枚。それに隊員から写真を百枚借りて本にしました」
 ジロは三十五年七月、病のため南極で死ぬ。三十六年四月、遺体はタロと一緒に帰国した。タロは北海道大学に引き取られ、四十五年八月、老衰で死亡。十五歳だった。
 兄弟は、はく製にされ、タロは北大、ジロは上野の国立科学博物館に保存されている。別れ別れ。藤原さんには、それがたまらなくつらい。
 「あれほど日本人を元気づけたタロ・ジロ。なぜ一緒にしてられないのか」
 藤原さんは、伝統のある「けん玉」を広めようと、五十年五月、「日本けん玉協会」を設立した。隊員の仲立ちがきっかけで、十四年前から越冬隊に「けん玉」を送る活動も続けている。
 しかし、タロ・ジロへの募る思いを抑えきれず、五十八年、兄弟を一つにと新聞に投書。それをきっかけに、「タロとジロをいっしょにさせる会」が出来た。
 「タロとジロを「宗谷」に展示したらどうだろう。それが無理なら、どこかに南極博物館を作って、一緒にしてやりたい」。口調は次第に熱を帯びる。歴代の文部大臣に提出した博物館建設の要望書には、合計二万六千人もの署名が添えられている。

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以上が記事です。
 平成6年2月に藤原一生先生は亡くなっており、タロとジロの再開は平成10年に実現しています。今は別々の場所に戻っているようです。

 藤原先生の願いは「タロとジロをいっしょにさせる会」に引き継がれて再会を果たしたのでしょう。

2013年2月8日金曜日

講演会に配布した資料(共同通信社より)

藤原一生先生の講演会に配布した資料です。↓

共同通信社より各社へ(北海道〜九州・・大分・信濃毎日・山梨日日点河北新報など)昭和60年8月末

「時の顔」

 日本けん玉協会がこのほど10周年を迎えた。けん玉は長い間、子供たちの格好の遊び道具だったが、発足当時はプラスチックのおもちゃに押されて、ほとんどすたれかけいた。しかし協会が結成されたことで再び注目を浴び、特に先生の指導を通して小・中学校の授業やクラブ活動に定着している。同協会の支部になっている小・中学校は現在約600校。ことし五月には、念願の第1回全日本ジュニアけん玉選手権大会も開かれた。
 「私自身、あきっぽい性格で、夢中になるものが三年周期で自然に変わるんです。その私が十年間もけん玉に縛られ、自分でも不思議ですね。子供のころ、“火の用心”と言って町内を回ったら褒められ、やめられなくなったような者ですよ・・・」
 けん玉の魅力はなんといっても手軽さ。ひざを使うので健康にもいいし、リハビリにも向いている。しかし、一般の人はまだおもちゃとしか見ていない。藤原さんらがルールを作り、けん玉は遊びからスポーツになった。
 「けん玉は難しい。だからコツを教える大人の指導者が必要。けん玉が盛んだった昭和初期の不況期や終戦直後には、失業者や復員兵など、子供たちと遊べる大人がいました。大人が忙しくなるとけん玉もすたれてしまったんですね」
 小柄。白髪。おだやかな物腰に時折、わんぱく小僧の面影がのぞく。「けん玉クラブに入るのは数学や理科の得意な子が多い。しかし、けん玉というとまだまだばかにされるという子がいます」。
“けん玉伝道師”の顔が曇った。
 本職は童話作家。三十四年に出版した「タロ・ジロは生きていた」は昨年、「南極物語」(藤原繕監督)と題して映画化された。その南極・昭和基地にも同協会の支部がある。
 「東京・深川の貧乏な家で生まれ、仲間と勝負してベーゴマやメンコを稼いだ。けん玉は高かったし、勝ち負けがないので仲間から奪えなかった」。そのけん玉を勝ち負けのスポーツにした。
 二人の息子さんは写真家として独立、妻の敏子さんと二人暮らし。暇があると野球やサッカーを見に行く。「最下位のチームを応援します」。夢は「文部大臣杯争奪全国小・中学校けん玉選手権大会を開くことだ」と、少年のように語る。61歳。東京都出身。田無市北原町。(現在の西東京市)
 

2013年1月28日月曜日

藤原一生先生の講演(先生のご紹介)〜司会より

(司会より)
 藤原先生を紹介させていただきます。
 藤原一生先生は、1924年5月1日、東京は深川の生まれです。
 みなさんもよくご存知の映画「南極物語」の原作となった「南極・カラフト犬物語「タロ・ジロは生きていた」また、先生ご自身の幼少期の体験をお書きになった「あかい目」など多数の著作があります。また、本業の童話作家の他に、日本けん玉協会の会長としてもご活躍なされています。先頃の雲仙普賢岳に噴火災害に見舞われている子ども達を元気づけようと、けん玉を片手に慰問に訪れたり、10月には国立極地研究所の南極越冬隊の方々にも指導に行かれました。
 藤原先生は一人で始めた小さな日本けん玉協会も今では北は北海道礼文島から南は沖縄。海外はスイスから南極の昭和基地に至るまで、会員約7000人、準会員約200万人を越えるまでの大きな会になっています。

 藤原一生先生には、本日は講演会やテレビ番組などお忙しいスケジュールの合間をぬってこの社医学(社会医学技術学院)の方に来ていただきました。

 それで今回は「人生の解剖」という演題で、お話していただきます。では藤原一生先生よろしくお願い致します。

2013年1月24日木曜日

講演会を終えてのサイン会

講演会での講演後は、けん玉の実技編

そして、講演終わってからサイン会。
「あかい目」の本にサインをいただいたのでした。


2013年1月23日水曜日

藤原一生先生の講演その22


僕の人生は「あかい目」を通して本音の人生に旅立つ


ですから皆さんにも、皆さんにだけしかない何かがあるんだから
それを自分で見いだして行く。
それを育てて、そして、たくましく生きていく。

そういう時に、また新しい伴侶も現れてくる。

まあ僕はあの、特にうちのかみさんをめちゃくちゃにおかしな女だと思うけど、佐藤くんらもうちに来て知ってますが、
藤原一生ありて、うちの女房がありて藤原一生ありって、よくやります。

講談社は僕のことね、学習院出だと思っていたの。かつて。
小学館は僕のことね、三田文学の慶応ボーイ出だと思ってたんですね。
売れない時代から。

ところが、この本を出して初めて、僕は小学校4年くらいしか行ってないということを社会に出す訳ですね。そういう本音の人生に旅立つ。

藤原一生の人生を次お話しましょう。

いつもそうやってね。書くんですよ。そうしたら買って読んでくれますから。(笑い)

どうもありがとうございました。(拍手)


藤原一生先生の講演その21


戦場の中での奇跡


3000人は全部シベリアへ連れて行かれました。
私は特殊な任務についていた関係なんで帰って来た。
そういう復員の中に例の加藤芳郎もいます。

だから加藤芳郎とは戦友なんですが、、。

人間の運命ってすごいですね。

すごいお屋敷、すごい財産、女房もいる、子どももいるという人がバタバタと死ぬ。
明日は白兵戦だからやろ!となると、僕はいつも出ました。

「おい、藤原!お前は死んでいい人間だ!出ろ!」
「はい!」
言われなくても出ましたね、僕は。

何回も弾(たま)が来てね。目の前でバタバタと死にましたね。

である時、山の中腹でね、一本道しかないんですね。
そこを走れって行って、走りましたね。
足に撃たれたりして、みんな倒れましたね。
僕は当たんないですね、走っても走っても。

そういう死んでもいい僕ですよ。
家もない、名もない、帰っても誰も待ってない。
それがなんで生かされたのか?!

その例の旅が復員してから今日まで続いている訳ですね。
ですから私の人生、生きている間
こういう奉仕の旅が続くと思います。

2013年1月22日火曜日

藤原一生先生の講演その20


夕焼け色の秘密とオヤジの死


法務省から依頼が来て
独房に入っている少年院、あるいは大人の刑務者の人たちにラジオで講演をしてくれと頼まれたのですが、ラジオでは開けてしまうからカセットにしてくれと法務省から依頼があってね。
「結構ですよ。」って言ってね。

特にそのダメだった人間、ダメだったアル中だったオヤジが空襲で死にます。
3月10日の空襲で死にます。
私が復員したのは同じ昭和20年の12月25日に復員した訳です。
復員して3日間歩いてオヤジの遺体を探してしまうんですね。
そういう奇跡のドラマをまた後日いつかお話しましょう。
これが僕の例の夕焼け色の秘密でいう演題なんです。

とにかく10万人の人が死んで、上野で死んで土葬になっているんですね。
錦糸町で、埋まってました。
オヤジの土葬のね。
なんでオヤジってわかるのか?
藤原って書いてあるんですね。番号がふってあって。
これぐらいの木に書いてある。
それで、オヤジに帰ってきたよって
ひたひたって音だな。
足が老婆だなってわかりましたね。
もう薄べったいね。
ぱーんと割れるような鼻緒がね。
元はピンク色だったのでしょうけど、今は白にピンクがかっているくらい。そういうおばあちゃんの足下のぱあっと開ける裾がね。
あれは浴衣ではないんだけどね。
着物なのかな?それを着ているおばちゃんが立っているのがすぐわかったんですね。
僕は砂をいじってましたから。

オヤジなんで死んでしまったのか?
戦時に行った僕がなんで帰って来たのか?
なんで内地にいるオヤジが死ぬんだ?と。
ってしゃべってたんですね。

でその足音が近づいて
「どなた?」って声が流れました。
でどなたってことは、あなたの誰ですか?ってことですね。

「オヤジです。」

「良かったわね。」過ぎ去った足がぱっと止まってね。
また、「どちらから?」
これは暗号的な標語ですが、町歩くと軍服着てね。
それは満州からですか?こくしからですか?南方からですか?とかそういう意味なんですね。
そういう意味で聞かれるんです。
「こくしからです。」
「良かったわね」っておばあちゃん。

町の脂っ気のない髪でね、1メートル48ぐらいの低いおばあちゃんが、か細いおばあちゃんが横に右に歩いて行くんですね。

真っ赤な夕焼けの、本当に大きな夕焼けでしたね。

鳥も飛んでない。終戦後の、本当に鳥も飛んでなかったですね。
そういうような真っ赤な夕焼けに
おばあちゃんのシークレットが吸い込まれて行くんです。

髪の白さだけがきれいでしたね。
真っ赤な夕焼けの中にね。

そういう印象がね、すごく未だに僕の中に残っております。

僕の21歳の時のドラマです。

そのおばあちゃんが、右に左に首を動かしているということは?
よろしいですか?
昭和20年の3月10日の空襲の日から、その夜から。
その朝からずーっとご亭主か、娘か、あるいは息子か知らないけれども、自分の家族の遺体を探して歩き続けている後ろ姿なんですね。

その名前を追いかけながら歩いている。
僕はその時にね、
本当に涙があふれたんですね。

その時のおばあちゃんの後ろ姿が何度も映りましたけれども。

とにかく、僕は帰ってくること自体が奇跡でしたよね。