2013年2月22日金曜日

日本けん玉協会創立のいきさつ

日本けん玉協会を創立し、初代の会長として活躍されていた藤原一生先生。
著書で紹介されている文章を紹介します。

ブログ「けん玉と健康」で紹介していますのでご覧ください。↓
http://health-kendama.blogspot.jp/2011/10/blog-post_09.html

藤原先生が腹膜炎にならなかったら、日本けん玉協会はなかったのかも?

健康のために始めたけん玉。
けん玉は、ただのおもちゃではない!
何かしらもっと大きな力を得たのかもしれません。
組織を産み出すには、相当なエネルギーがいります。

ちなみに、私が最初に手にしたけん玉は、けん玉愛好会が推奨していたけん玉で、糸をけんにつけるところが全く異なっていました。

2013年2月18日月曜日

1989年12月の藤原一生先生の記事


藤原一生先生から直接いただいた記事です。
特別講演会をするのに何か資料が欲しいと頼んだところ、この記事をいただきました。特別講演のお願いに自宅にうかがった時のことです。
 
19891212日の新聞
日本けん玉協会支部1,000達成
田無の藤原一生会長
愛情注ぎ15
 遊びから競技へ
文部省も後援
海外にも愛好者

 NKKといっても、鉄鋼大手のことではない。「日本けん玉協会」の略称である。かつては正月だけの遊びだったが、いま小学生から大人まで二百万に近い競技人口だ。この競技を十五年かけて隆盛に導いてきた協会本部が、田無市にある。愛好者の支部は全国の学校はおろか文部省の職場にまであり、海外ではアフリカのザンビアにまでおよんで、支部数は現在1,000。たかが遊び、とは言えないような勢いだ。
 協会長は、田無市北原二丁目、児童文学者の藤原一生さん(65)。昭和四十七年の秋、近所で「けん玉」を持ちながら、うまく遊べない子供に教えたことから、けん玉の普及にのめり込む。「小学校の五年まで、しょっちゅう遊んでましたからね。ああこれは伝承させなきゃと思ったんです」
 「けん玉」は海か陸のシルクロードを経て、江戸中期の安永年間には日本に入ったようだ。藤原さんの研究では、船乗りがたいくつしのぎに考え出したもので、当初の形は「猪口の形して、柄あるものなり。それに糸をつけてさきに玉を結びたり」(天保時代のプレイガイド、「喜遊笑覧」)。その後、大正十年に広島呉市の人が現在のような形にしてから、爆発的な人気を呼び、男の子の遊びとして定着したという。
 名刺には「十段」とある。「実際は六段でしょうね」。けん玉の面白さは、「むずかしい遊びだけに、成功したときの感激。あるいは緊張感、集中力」。
田無市の青少年委員として教え始めたころ、腹膜炎で入院。小水とガスが出ずに苦しんでいるとき、「けん玉」と遊んで、苦境を脱した体験もある。「体にもいいのに、なぜけん玉がすたれているのか」、それからしばらく、家人を嘆かせるほどの全国行脚で、普及に熱中した。
 協会の正会員、五千人。五人以上から支部の結成を認める。競技用のけん玉をメーカー二社に作らせ、段位制度を作った。毎年一月に『NKK杯』、五月末に「全日本けん玉道選手権大会」など。今年から始めた少年少女の選手権大会には、文部省の後援がついた。
 千番目の支部は、大阪府立堺工業高校の生徒たち。協会の認定する初段は、「けん」の部分のタテ(中皿)とヨコ(大皿)の皿に交互に玉を乗せる「もしもしかめよ」の歌に合わせた「もしかめ」を二百回できることだそうだ。

藤原一生先生からいただいた資料(1989年9月)


1989年(平成元年)9月の資料です。
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藤原一生の<集中度>の分析  
田無市における藤原一生の世界
            田無市・市民憲章制定審議委員 昭和511019日〜52年1月
            文化財保護委員 昭和44年9月24日〜52年9月
            市立・図書館協議会委員 昭和5012月1日〜5811
            田無・百人一首を楽しむ会・創立 他の人に託し、これも10

ペン生活<子どものための作家生活> 昭和29年4月より現在
南極のタロ・ジロ運動 昭和34年より現在
けん玉の世界 “教材への夢” 15
 昭和50年5月5日 日本けん玉協会<創立> 十年史発行
光が丘NHKカルチャーセンター講師 62年4月〜63年3月までの1年間

2013年2月16日土曜日

藤原一生先生からいただいた資料(自己分析)1991年10月


Weekly report(週報)東京田無ロータリークラブ(19911992
平成3(1991)年10月3日発行
 自己分析   藤原一生氏


創作前                                                                    
作家として、ひとこと。
いざ<小説>、あるいは<童話>でも、書く以前はとまどう。何をかこうか、どこを小説の舞台にしようか。主人公は女性がよいか、少女がよいか。テーマは、なンだ。
こうして、まよいの小路に吸いこまれていく。ほんのりと頭に浮かんでいた“モチーフ”も次第にくずれだす。〆切が迫ってきて、いらいらしだす。苦しみだす。これはペンで生きているもの書き<作家>だけの苦闘ではない。皆さんも同じことがいえる。<書く><書かされる>という作業はさまざまな形で不意に装いかかってくるものだ。
このエッセイにしても同じことがいえる。とうぜん、〆切日が指定される。それがプレッシャーの動機となる。
そういう場合、どうしたらよいか。
自分を原点にもどすことだ。俺にはいったい何があるのか、“何をいい多野か”.何を書こう・・・・・・でなく、〔何を書かずにはいられない〕というものへの発見に心を、目をむけることだ。書くものが、現在の自分なのだ。それを今、さらけだせるか否かにかかっているのだ。
創作以前の苦闘はこうして時と闘い、光をみいだいてゆく。
                                             
動機
“けん玉”の世界でも同じことがいえる。けん玉は日本に渡来したのが安永6〜7年(1777年)と嬉遊笑覧という古い本に記録されている。
私が“けん玉”をはじめたのも《昔の遊びを次の世代に伝えよう》という“伝承“活動にすぎなかった。それだけなら、今も、伝承の世界だけで終わっていたにちがいない。
同じけん玉で、同じルールで、日本じゅうどこへ行っても遊べるようにしたい!ぽつんとともった小さな灯のあかりの輪が次第に大きくひろがり、日本けん玉協会の誕生となり(昭和50年5月5日)、〈タイム競技〉とかさまざまな“けん玉におけるスポーツ用語”が生まれ全国へはばたいていった。1991年〈平成3年〉10月5日発行の“けん玉通信”を見ると全国の支部数が1,228となっている。
田無で、ひとりでポツンをはじめた会が今や200万人の大集団となり、いま社団法人化に作業をすすめている。田無は、その、世界へはばたく日本けん玉協会の発祥の地として、日本じゅうにその名を知られている。

2013年2月10日日曜日

講演から4日後の新聞記事「タロ・ジロを再び一緒に」

藤原一生先生が、講演の中で船の科学博物館でのエピソードがありましたが、その内容が記事として出されたのは講演から4日後の11月7日でした。

読売新聞 1991年(平成3年)11月7日の記事は以下の通りです。

タロ・ジロを再び一緒に

2頭へのつのる、熱い思い

「宗谷」ーーー水辺からの報告:カラフト犬

 作家の藤原一生さん(67)(田無市)が、品川区の「船の科学館」に係留されている「宗谷」を訪ねたのは、十月末のことだ。
 一度だけ、「宗谷」の内部を見学したのが、昭和三十年代半ば。第四次南極観測隊が航海に出かける際だったから、ほぼ三十年ぶりの再訪になる。

「飛行甲板には、どうやって行くんですか」。案内役の同館職員、緋田(あけだ)武男さん(40)をせかせながら、甲板にでた藤原さんは「ここで犬たちを運動させたんですよ」と、声をあげた。
 昭和三十四年七月の発売すぐにベストセラーになった「タロ・ジロは生きていた」。その著者が、当時フリーのライターだった藤原さんである。
 タロとジロは、カラフト犬の兄弟だ。三十一年出発の第一次南極観測隊は、そりを引くカラフト犬を二十頭同行させた。
 昭和三十三年二月。「宗谷」でやってきた第二次隊は、悪天候に阻まれて越冬中止。西堀栄三郎隊長以下十一人の第一次越冬隊員も、飛行機で救出という事態となり、犬たちのうち十五頭が置き去りにされた。
 翌三十四年、「宗谷」は再び南極へ。一月十四日、無人の昭和基地にヘリコプターで向かった隊員が、氷雪の上で二頭の犬を見つける。タロとジロだった。
 日本を、世界を駆け巡ったニュース。藤原さんは当時、出版社に”南極探検”をまとめるようにいわれ、新聞記事を集めていたから、さっそく、タロ・ジロの物語の執筆にかかった。
 「四百字詰めで二百枚。それに隊員から写真を百枚借りて本にしました」
 ジロは三十五年七月、病のため南極で死ぬ。三十六年四月、遺体はタロと一緒に帰国した。タロは北海道大学に引き取られ、四十五年八月、老衰で死亡。十五歳だった。
 兄弟は、はく製にされ、タロは北大、ジロは上野の国立科学博物館に保存されている。別れ別れ。藤原さんには、それがたまらなくつらい。
 「あれほど日本人を元気づけたタロ・ジロ。なぜ一緒にしてられないのか」
 藤原さんは、伝統のある「けん玉」を広めようと、五十年五月、「日本けん玉協会」を設立した。隊員の仲立ちがきっかけで、十四年前から越冬隊に「けん玉」を送る活動も続けている。
 しかし、タロ・ジロへの募る思いを抑えきれず、五十八年、兄弟を一つにと新聞に投書。それをきっかけに、「タロとジロをいっしょにさせる会」が出来た。
 「タロとジロを「宗谷」に展示したらどうだろう。それが無理なら、どこかに南極博物館を作って、一緒にしてやりたい」。口調は次第に熱を帯びる。歴代の文部大臣に提出した博物館建設の要望書には、合計二万六千人もの署名が添えられている。

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以上が記事です。
 平成6年2月に藤原一生先生は亡くなっており、タロとジロの再開は平成10年に実現しています。今は別々の場所に戻っているようです。

 藤原先生の願いは「タロとジロをいっしょにさせる会」に引き継がれて再会を果たしたのでしょう。

2013年2月8日金曜日

講演会に配布した資料(共同通信社より)

藤原一生先生の講演会に配布した資料です。↓

共同通信社より各社へ(北海道〜九州・・大分・信濃毎日・山梨日日点河北新報など)昭和60年8月末

「時の顔」

 日本けん玉協会がこのほど10周年を迎えた。けん玉は長い間、子供たちの格好の遊び道具だったが、発足当時はプラスチックのおもちゃに押されて、ほとんどすたれかけいた。しかし協会が結成されたことで再び注目を浴び、特に先生の指導を通して小・中学校の授業やクラブ活動に定着している。同協会の支部になっている小・中学校は現在約600校。ことし五月には、念願の第1回全日本ジュニアけん玉選手権大会も開かれた。
 「私自身、あきっぽい性格で、夢中になるものが三年周期で自然に変わるんです。その私が十年間もけん玉に縛られ、自分でも不思議ですね。子供のころ、“火の用心”と言って町内を回ったら褒められ、やめられなくなったような者ですよ・・・」
 けん玉の魅力はなんといっても手軽さ。ひざを使うので健康にもいいし、リハビリにも向いている。しかし、一般の人はまだおもちゃとしか見ていない。藤原さんらがルールを作り、けん玉は遊びからスポーツになった。
 「けん玉は難しい。だからコツを教える大人の指導者が必要。けん玉が盛んだった昭和初期の不況期や終戦直後には、失業者や復員兵など、子供たちと遊べる大人がいました。大人が忙しくなるとけん玉もすたれてしまったんですね」
 小柄。白髪。おだやかな物腰に時折、わんぱく小僧の面影がのぞく。「けん玉クラブに入るのは数学や理科の得意な子が多い。しかし、けん玉というとまだまだばかにされるという子がいます」。
“けん玉伝道師”の顔が曇った。
 本職は童話作家。三十四年に出版した「タロ・ジロは生きていた」は昨年、「南極物語」(藤原繕監督)と題して映画化された。その南極・昭和基地にも同協会の支部がある。
 「東京・深川の貧乏な家で生まれ、仲間と勝負してベーゴマやメンコを稼いだ。けん玉は高かったし、勝ち負けがないので仲間から奪えなかった」。そのけん玉を勝ち負けのスポーツにした。
 二人の息子さんは写真家として独立、妻の敏子さんと二人暮らし。暇があると野球やサッカーを見に行く。「最下位のチームを応援します」。夢は「文部大臣杯争奪全国小・中学校けん玉選手権大会を開くことだ」と、少年のように語る。61歳。東京都出身。田無市北原町。(現在の西東京市)