2013年1月28日月曜日

藤原一生先生の講演(先生のご紹介)〜司会より

(司会より)
 藤原先生を紹介させていただきます。
 藤原一生先生は、1924年5月1日、東京は深川の生まれです。
 みなさんもよくご存知の映画「南極物語」の原作となった「南極・カラフト犬物語「タロ・ジロは生きていた」また、先生ご自身の幼少期の体験をお書きになった「あかい目」など多数の著作があります。また、本業の童話作家の他に、日本けん玉協会の会長としてもご活躍なされています。先頃の雲仙普賢岳に噴火災害に見舞われている子ども達を元気づけようと、けん玉を片手に慰問に訪れたり、10月には国立極地研究所の南極越冬隊の方々にも指導に行かれました。
 藤原先生は一人で始めた小さな日本けん玉協会も今では北は北海道礼文島から南は沖縄。海外はスイスから南極の昭和基地に至るまで、会員約7000人、準会員約200万人を越えるまでの大きな会になっています。

 藤原一生先生には、本日は講演会やテレビ番組などお忙しいスケジュールの合間をぬってこの社医学(社会医学技術学院)の方に来ていただきました。

 それで今回は「人生の解剖」という演題で、お話していただきます。では藤原一生先生よろしくお願い致します。

2013年1月24日木曜日

講演会を終えてのサイン会

講演会での講演後は、けん玉の実技編

そして、講演終わってからサイン会。
「あかい目」の本にサインをいただいたのでした。


2013年1月23日水曜日

藤原一生先生の講演その22


僕の人生は「あかい目」を通して本音の人生に旅立つ


ですから皆さんにも、皆さんにだけしかない何かがあるんだから
それを自分で見いだして行く。
それを育てて、そして、たくましく生きていく。

そういう時に、また新しい伴侶も現れてくる。

まあ僕はあの、特にうちのかみさんをめちゃくちゃにおかしな女だと思うけど、佐藤くんらもうちに来て知ってますが、
藤原一生ありて、うちの女房がありて藤原一生ありって、よくやります。

講談社は僕のことね、学習院出だと思っていたの。かつて。
小学館は僕のことね、三田文学の慶応ボーイ出だと思ってたんですね。
売れない時代から。

ところが、この本を出して初めて、僕は小学校4年くらいしか行ってないということを社会に出す訳ですね。そういう本音の人生に旅立つ。

藤原一生の人生を次お話しましょう。

いつもそうやってね。書くんですよ。そうしたら買って読んでくれますから。(笑い)

どうもありがとうございました。(拍手)


藤原一生先生の講演その21


戦場の中での奇跡


3000人は全部シベリアへ連れて行かれました。
私は特殊な任務についていた関係なんで帰って来た。
そういう復員の中に例の加藤芳郎もいます。

だから加藤芳郎とは戦友なんですが、、。

人間の運命ってすごいですね。

すごいお屋敷、すごい財産、女房もいる、子どももいるという人がバタバタと死ぬ。
明日は白兵戦だからやろ!となると、僕はいつも出ました。

「おい、藤原!お前は死んでいい人間だ!出ろ!」
「はい!」
言われなくても出ましたね、僕は。

何回も弾(たま)が来てね。目の前でバタバタと死にましたね。

である時、山の中腹でね、一本道しかないんですね。
そこを走れって行って、走りましたね。
足に撃たれたりして、みんな倒れましたね。
僕は当たんないですね、走っても走っても。

そういう死んでもいい僕ですよ。
家もない、名もない、帰っても誰も待ってない。
それがなんで生かされたのか?!

その例の旅が復員してから今日まで続いている訳ですね。
ですから私の人生、生きている間
こういう奉仕の旅が続くと思います。

2013年1月22日火曜日

藤原一生先生の講演その20


夕焼け色の秘密とオヤジの死


法務省から依頼が来て
独房に入っている少年院、あるいは大人の刑務者の人たちにラジオで講演をしてくれと頼まれたのですが、ラジオでは開けてしまうからカセットにしてくれと法務省から依頼があってね。
「結構ですよ。」って言ってね。

特にそのダメだった人間、ダメだったアル中だったオヤジが空襲で死にます。
3月10日の空襲で死にます。
私が復員したのは同じ昭和20年の12月25日に復員した訳です。
復員して3日間歩いてオヤジの遺体を探してしまうんですね。
そういう奇跡のドラマをまた後日いつかお話しましょう。
これが僕の例の夕焼け色の秘密でいう演題なんです。

とにかく10万人の人が死んで、上野で死んで土葬になっているんですね。
錦糸町で、埋まってました。
オヤジの土葬のね。
なんでオヤジってわかるのか?
藤原って書いてあるんですね。番号がふってあって。
これぐらいの木に書いてある。
それで、オヤジに帰ってきたよって
ひたひたって音だな。
足が老婆だなってわかりましたね。
もう薄べったいね。
ぱーんと割れるような鼻緒がね。
元はピンク色だったのでしょうけど、今は白にピンクがかっているくらい。そういうおばあちゃんの足下のぱあっと開ける裾がね。
あれは浴衣ではないんだけどね。
着物なのかな?それを着ているおばちゃんが立っているのがすぐわかったんですね。
僕は砂をいじってましたから。

オヤジなんで死んでしまったのか?
戦時に行った僕がなんで帰って来たのか?
なんで内地にいるオヤジが死ぬんだ?と。
ってしゃべってたんですね。

でその足音が近づいて
「どなた?」って声が流れました。
でどなたってことは、あなたの誰ですか?ってことですね。

「オヤジです。」

「良かったわね。」過ぎ去った足がぱっと止まってね。
また、「どちらから?」
これは暗号的な標語ですが、町歩くと軍服着てね。
それは満州からですか?こくしからですか?南方からですか?とかそういう意味なんですね。
そういう意味で聞かれるんです。
「こくしからです。」
「良かったわね」っておばあちゃん。

町の脂っ気のない髪でね、1メートル48ぐらいの低いおばあちゃんが、か細いおばあちゃんが横に右に歩いて行くんですね。

真っ赤な夕焼けの、本当に大きな夕焼けでしたね。

鳥も飛んでない。終戦後の、本当に鳥も飛んでなかったですね。
そういうような真っ赤な夕焼けに
おばあちゃんのシークレットが吸い込まれて行くんです。

髪の白さだけがきれいでしたね。
真っ赤な夕焼けの中にね。

そういう印象がね、すごく未だに僕の中に残っております。

僕の21歳の時のドラマです。

そのおばあちゃんが、右に左に首を動かしているということは?
よろしいですか?
昭和20年の3月10日の空襲の日から、その夜から。
その朝からずーっとご亭主か、娘か、あるいは息子か知らないけれども、自分の家族の遺体を探して歩き続けている後ろ姿なんですね。

その名前を追いかけながら歩いている。
僕はその時にね、
本当に涙があふれたんですね。

その時のおばあちゃんの後ろ姿が何度も映りましたけれども。

とにかく、僕は帰ってくること自体が奇跡でしたよね。

2013年1月20日日曜日

藤原一生先生の講演その19

 読み物作家として

で僕はね、やっぱりあのまともな勉強してませんから、
藤原一生の文学に欠けたものは何か?
というと、思想的な点ですね。思想ですね。
把握力というものはないですね。

ですからこういう講演しても
バラバラに跳んでしまいますね。
しゃべってますね。
最近やっとね、老人になっていろいろと勉強してよくなってきたけれども、やはり私は読み物作家であると自分でも思っています。

ですから読み物作家としての職人としては、日本一だと思っています。

私がけん玉協会の会長になるまでは
1日150枚、最低限の原稿、400字詰めの原稿ですよ。
少ない時でも120枚。
午前中は集英社の作品、
午後は、あの食うための作品、あるいはターザン書いたりね、
夜は自分の小作家。
1日三つぐらいに分けて連載書いてましたね。
そういう風に生きておりました。

しかし人間て不思議ですね。

私のような黒いその醜いアヒルの子っていうかな、、。
そんな人間にこういう素晴らしい世界を与えて下さった天に本当に感動している訳です。

非常にありがたい人生

今度11月29日には文部省の依頼で、全国の都道府県の障害スポーツ教室の偉い先生方約500人くらいが集まります。その方に講義をします。

それから2月25日には東京全体の教頭会、教頭先生を全部集めて
例の「夕焼け色の秘密」私の人生だけを1時間半たっぷりお話します。

けん玉を通して南フランスへ

それから、3月には南フランスへ行く予定です。
これはビルボケ アンド フェスティバルというのを企画しております。

いっしょに行こうという人のお誘いで多分行けるだろうという状況に今あります。

この間、偉い方10人くらいがパリから来られて、関西などを旅行されて、銀座に来て、セッションがあった時に、日本のけん玉の技を披露しました。で、多分私は行けるだろうと見ております。

そういう意味で、年を取って晩年になってもね。
まだ倒れないで、元気にやっていられるということは本当に幸せだと思います。

特にそういう中で非常に感じることは人間に運、不運というのがある、運ですね。
「ど」というのは努力のどではないですね。
鈍感(どんかん)の鈍。かねへんのね、鈍という字を書くのですが。これは、まあ忍耐、忍ぶとかね、そういうような意味もあると思いますね。

あとは根性ですね。
チャレンジ精神とかね。
執念とかね。

11月1日に私のお弟子さんが、パルスホテルで、ノバ新人賞というのをとりまして、
これで二人目ですが、私のお弟子さんも教わって素晴らしい賞をとるようになってきました。

非常にありがたい人生を生きております。
せいぜいあと5年くらいの自分の人生だと思いますので、佐藤さんが来て、吉本さんが来て、
「藤原先生、うちは本当に貧しい学校ですが、お金も払えませんが、来ていただけませんか?」
「その代わり時間たっぷりちょうだいよ。」
「いいですよ。」
それが条件でした。
今日、佐藤さんにお礼を言います。吉本さんにもお礼を言います。

勤労青年のあなた方に是非話したい!
もっといっぱい、、。
バラバラになったってことはちょっと風邪ぎみで頭が重いんで何かまとまった話にならなくて申し訳ありませんでしたが、もう一度まとめます。要約します。

藤原一生先生の講演その18

僕の幼少期と僕の才能


僕の場合には、話しましょうね。

人のこと言わないで、自分の事を言いますが。まず貧民街に育って、非常に貧しい、家庭色というのがない。

本当にボロボロの中で
どうして、真っ当に生きてきたか?

まずそこに非常に明るい面を持っている、与えられたという事ですね。

それから、
生き抜く力を持っていた

それから、発想力がありましたね。

例を言うと、
オヤジがいつも一銭か二銭おいてくれるんですね。
一銭玉ですよ、昔はね、二銭ぐらいが普通なのに、
オヤジが酒飲んじゃってお金がない時に
一銭ぐらいしか置いていかない。
それでとってもやっていけないんだよね。
紙芝居を見るのだってお金がかかるんだよね。
やきそばを食うにもお金がかかるんですね。
屋台のをね。
それで次に何をするかというと
ベイゴマをするんですね。
ベイゴマをして勝つ。僕はうまいからな。
駄菓子屋に行って、一銭で2個売ってんのね。
藤原一生商店という看板を作ってね。
僕は一銭で4個。
そうするとどんどん来るよね。
来るけども、でその子は一銭で4個で儲かったと思うけれども
30秒、1分後には、それは僕の元に来ている訳です。

これはどういう計算になりますか?
いつもゼロですね。ゼロの世界。

それからもう一つは、雄弁と言いますかね、話す力を天は与えてくれていますね。僕に。

例えば、縁台商(えんだいしょう)。

東京湾の港から労務者が帰って来て、
夜、急に吹き上がります。
夏なんかねうちに帰ってくると、
クーラーも何もないですからね、うちわだけですからね、あるのはね。
ですから、皆、おもてに行ってね、夜眠くなるまでいますね。
すると、僕は縁台話とするんです。

と、すぐに空き缶を置いて、メンコ1個とですね、何かを入れないと聞かせないんですね。

これは黄金バットの咄家(はなしか)から教わった教訓ですね。

そうすると
「お前うまいな!お前今に高職種になれるぞ!、、、。天才少年だ!」と言われたことがあります。

そういう風に
雄弁というのが与えられています。

で、しかも雄弁を悪の方に使わないという理性。こういうものが何かしら心に染み込んでいる。

自分でも不思議です。
この不思議な藤原一生をNHKなどが目につける訳です。

で、皆さん寝ているから見てないでしょうが、

朝5時台のね、人生読本というのに出ると
1回出て感動した人の講演の依頼が1年続いたという、嘘みたいな話でしょ。

作家ですごいでしょ。こういう風に。
これが十年間続くんですよ。

僕はこれでノサップから沖縄まで講演をいただきましたからね。

電話に出るとね、
「藤原先生ですか?私あの文教関係の教師員やってます。」
おばさんの声ね、
「読んでます。先生、なんとか来てもらえませんか?
うちはお金がなくて安いんですが、ぜひ先生来て下さい。」
って、沖縄に行ったりしました。

そういう旅が随分続いております。
ありがたいですね。

2013年1月12日土曜日

藤原一生先生の講演その17

僕の本質、明るい僕と暗いおかみさん

 〜 そして、僕が言いたいこと  〜

で私は今67歳ですが、
そういう凄まじい中で生きて、自分の力で生きて、未だに前科がありません。
これだけは自分の誇りですね。

とにかくなぜかしら明るい。
ものすごく明るい。
その明るさを今日ここに上がるまでに
いっぺんに表現してみせたいと思いますね。
僕の本質は非常に明るい。
なぜなのか?
ここにいるのが死体だったら、「藤原組長暗殺される!」

今頃、藤原墓地の中で眠ってますね。
それは本当に明るい。
すべてにおいて明るくしますね。

これからもあなた方も結婚するんですから気をつけたらいいですよ。

明るい人間には、暗いおかみさんが来ますからね。

うちのかみさん暗いんだよね。
僕はトイレに行く時、全部電気つけて入るんだけど、
かみさんは消して入るんだよね。

僕はねトイレに窓を開けるとね、次行くと、閉まってるんだよね。

なんでもかんでも反対なんだよね。
僕が南向いて寝ると、うちのかみさんは北向いて寝るから。
なんで一緒になったかなって。
それを気をつけて結婚してくださいね。

まあそういう訳で、そういう私の解剖の中で
何を僕は言いたいかというと、
人間にはそれぞれにあなたには、あなたとは女性達を指しますよね。
あなたにはあなただけにしかないものがあるんだよね。

それが個性っていうんだよね。

だから君は君だけのものしかない!

だから僕は聞いて、小学生の子ども達には

君には君たちだけのものがある!という話をします。

2013年1月9日水曜日

藤原一生先生の講演その16

 どこら辺から自分がダメになり、助けられたか

〜 妹の死 そして、 荻窪教会 〜


あとはもうガラクタですね。
オヤジの酒くさい臭い。
オヤジの怒鳴り声。
ぶん殴られる、逃げる。もうオヤジのアル中(アルコール中毒)のね、始まる訳ですね。
妹が亡くなってから。

そういう子が一体どうなるか?

皆さんも想像つくと思いますが。

とにかくケンカっぱやい。
勉強ができないから。
行ってもわかんないからしない。
段々そうなっていきますね。

だけど、ある時、僕は級長って言ってましたね。
3年生の時かな?4年生の時だな。級長になったことがあるんですよ。
それは全部の子どもに投票させたら、なった訳ですね。
そしたら、先生が困って、「それは違法である、ダメだ。」って言ってね、みんなの投票で決まったんだからって、僕の副団長が有名な奴で、先生とケンカしたけど、結局、降ろされちゃったんですけど。
一回だけ、仮の級長になったんですけどね。幻の級長ね。

ちょっとあのね、自分の子どもの時からね。
勉強のことで見てみるとね。
例えば、先生が黒板に書くでしょう。
何かをね。聞いているとわかんないけどね、先生ったらバカじゃないかなって思うことがあったんです。
なぜかというと、こうすると同じ答えが出るじゃないかって、自分で書いていると、テストの答えが。
先生に、「こうやった方が早いんじゃない?」って言うと、
「またかバカ。黙ってろ。ああ確かに合っている。中間を書かないで答えだけを書いたらダメだぞ!って言ってね。そうするとおかしいのではないかなあ?って思ったことがあるの。
だから、下から伸びていくんじゃないかって思うんだよね。
それから不思議に、あの、、。
数学の話、昔は算木(さんぎ)って言ったんだけどね。

僕はね、どこら辺から自分がダメになったのかなあって考えると
4年生ぐらいの時にね。
昔の教科書は白黒だけだったんだよね。

下に十個の俵が書いてあったんですよ。
段々と上に9個、8個ってピラミッド式にね。
そういうのが教科書に出てるの。

3年生の後半くらいかな?
1個をぱっと取ったらどうなるか?という問いに
みんなが「はい!はい!」ってさ
10−1=9になるでしょうって言うけど。
そこはドラマで言っちゃうよね。作家というのは。

僕は「はい!はい!」って手を挙げた事がないんですよ。
挙げたことがないのにね、たまたま挙げたの「はい!」って。
「おっ、かずお珍しいなあ。言ってみろよ」

「1個取ったらみんな崩れます」って言ったの。ざあっとね。
本当に崩れると思ったよね。
そしたら、「貴様、俺をおちょくるのか?」って言ってね、「立ってろ!」って言ってね。
あそこら辺から、なんかね算出が始まるとおしっこに行きたくなるの。ムズムズするんですね。

こういうのは、非常に、僕は、今も小学生の時にね、くだらない、冗談じゃなくてね、真剣に子どもらの前で話すんですがね。
3、4年の頃にそういう習慣をつけるとね。
大人になるまで続くのね、そういうの。
僕、未だに女房がね「この間三万出したしょ、おつり!」って言うと、
まずトイレに行きたくなりますね。何か数学、数字でいじめられると、すぐトイレに行くっていうのはどういう体質なのかってね。

そういうようなことがたくさんありましたね。

時間があまりありませんからね。

とにかく、ダメな方向へどんどん行って、学校へ行くのが嫌になる。そして、浅草ロケへ行って、映画を見るようになる。

で、町の役員が集まって、この子をこの町に置いておくと、
火つけられるかもしれないから、と言って
少年院に入れられそうになる。

そういう時に、
「いや、それはいけない」「この子のために良くない」と。
「私が引き取りましょう!」って言って、荻窪教会。
汚いね、今にも倒れそうな汚い教会があったんですね。
そのおばちゃんが、僕を1年間面倒をみてくれたんですね。その時のドラマがここ(「あかい目」という本)に書いてあります。

人間というのはどういうドラマで助かるかわかりません。

2013年1月8日火曜日

藤原一生先生の講演その15

最も遠くて古い一番美しい僕の記憶の映像

 

妹が亡くなる前に、僕はオヤジの帰りを妹の手をこう行ったことがありますが、
夕焼けがとてもきれいな、そういう妹の手を引いて、オヤジの帰りを迎えに行った夕焼け色っていうのが、非常に印象的でしたね。

で、あの、、。
さっきも言いましたように、「食卓がない」ってことは、町の一膳めし屋を食っていたってことですね。ず〜っとね。

で、その妹がまもなく亡くなるんですね。
僕が4つぐらいの頃だと思うんです。
妹が2つくらいの時だったでしょうね。

僕は時々目をつぶってですね。
自分の遠い昔の本当に古びれたアルバムじゃないけれど、遠い昔の過去をですね、さかのぼる旅をすることがあります。
作家としてね。

人間というのは、どのくらいの純粋な思い出があるか?

私は幸いなことにおばあちゃんとか、おじいちゃんがいません。

両親もいませんね。

オヤジからまともな話を聞いた事がないから、過去を全く知りません。
しかも、アルバムもありません。
ですから、目に浮かぶものは純粋なものであるという証明をもてるのは、一般の人よりも幸せだっと言える訳です。
僕は。

そういう点で作家という要素が与えられている訳なんです。

目をつぶると細い二本の線が浮かびます。
それは何かと言うと、妹を焼いた後の火葬場で、二本の箸で妹の骨をつまみ上げた、僕が4つぐらいの映像が一番古い記憶の映像なんですね。

そこがまた詩的であり、詩のようであり、一番美しい映像でもあるんです。

藤原一生先生の講演その14

「藤原一生」の人生の解剖がここから始まる


僕の話ね、時々いろいろなことがぱっと浮かんできて、僕の頭の中で回転が早すぎるんですよ。僕ね後で自分で解剖するけどね。
結局、バカでないと思うの。
親がいて、きちんと教育したら、東工大とか、東大とか、所沢大学だとか入れるのよ。

僕だって。

ね、、だけどさ、勉強しろ!っていう人がいないんだから、、。

生まれて学校行かなくていいんだから。

段々悪い方にいっちゃうのは当たり前なのよね。
だからね、あの、、。

どっからダメになったのか?
どっから勉強嫌いになったのか?
時々自分でもね講演しながら、探ることがあります。

今日は特に解剖ですから、
ここら辺から僕の解剖が始まっていくんですね。
その解剖の結果、素晴らしい光が、オーロラじゃないけど、光が輝いていくわけですね。

2013年1月7日月曜日

藤原一生先生の講演その13

本名は藤原一生(ふじわらかずお)とその出生 

とにかく、藤原一生と書いてありますが、本名は一生(かずお)です。
これはオヤジがつけた本当の名前です。
選挙用のためではありません。選挙で、藤原一生なんてね。当選間違えなしの字ですね。

でもオヤジが「生きるも死ぬも一生」って付けた訳ですね。
私が生まれた時に、おぎゃあって言わないで、この子は何分後には死ぬだろうって。看護師さんが、どうせ死ぬならと言って、うんと振って、お尻をものすごく叩いたら、おぎゃ〜ってか細い声を出したって、いう由緒があるそうです。
最初、オヤジが「一生」ってつけたそうです。「生きるも死ぬも一生」
だめなオヤジがまあ最高の表現を使ったですね。
「生きるも死ぬも一生」
それで、生きたものだから、「一生(かずお)」になったんですね。日本人は、長男はだいたい「かずお」です。
ですから、私の本名は「かずお」って言うんですね。
ところが、私が人間の意識を持った時に、人間の意識を持つということは、まず三歳くらいとみて良いでしょうね。

周りは長屋で、一番、東京で最も深川の貧民街の中でも、また一等地、二等地、三等地ってあるんですね。貧民街の中に等地の区分けがあるんですね。軽井沢とかね、ここは山の手線とか、山の手とかね。その中でも一番ひどいどん底の一角に僕は人間の意識を持った訳です。
これは、藤原一生(かずお)という一人の人間の意志によって与えられたものでもなく、作られたものでもない訳ですね。
また、親を恨むこともできない。
なぜそこに神は私をここにおいたのか?
天はそこに私をおいたのか?それも問い詰めることはできない。

人間は自分で這い上がっていくしかない。
神の力とか、世の時に育つ力とか、そういうのは頼ることはできない。

与えられた運命。

それに負けたら、みんなが死んでしまう。
とにかく僕は、ふっと人間の意識を持った時には、
なぜかわからないけど、母親がいない。

今より死にかかった本当に細い腕をしていた妹。かおるって言いましたが、歩くようにやがてなって行く。
その頃から、お酒を飲んでいたオヤジですが、あの酒と、女と、身を崩して貧民街に堕ちた人間と思いますが、いた訳ですね。
あとは長屋のおばちゃんばっかり。

その頃からは、私は、もう生まれた時から、家で食卓、、。

いいですね。

2013年1月1日火曜日

藤原一生先生の講演その12

感無量で歩く日比谷の森と夕焼け色の秘密


まあとにかく、大臣の一言で、文部大臣杯を差し上げましょうということになって、
10年来の、私は文部大臣の階段を降りまして、
そして、目の前の地下鉄に入って、
そして、赤坂見附を経て、目の前の駅に乗り換えて、
新宿へ来て、田無に帰るのが普通の道順です。

でも私は、なぜかしらその電車に乗ろうという気になれなかったですね。

それは、感動と興奮のるつぼに入っていたんでしょうね。

ふと見たら、日比谷公園の森が見えたので、自然に日比谷公園を歩いていたんです。
歩きながら、
自分の目に去来するものは、
自分が育った深川の貧民街。

僕はよく講演を頼まれますが、このような硬い題を付けることは10年に1回じゃないかと思います。大概、夕焼け色の秘密。みんなが喜ぶような題を付けます。
で、それは私が母親がいませんから、僕の人生にまつわる夕焼け色がず〜っと僕のドラマに。これにも夕焼け色が出てきますが、あらゆる僕の書く誌にところに自然に書かれるんですね。
藤原一生における夕焼け色というのは何なのか?という論文を書いたことがありますが、それは、結局は知らない母親の愛を求めている原点がうずくまっているんではないか?という議論を考えているんです。

その日比谷の森を歩きながら、
非常に感無量っていうかな、
自分の歩んできた貧しかった、
苦しかった道が次々に浮かんでくる訳です。