2010年2月12日金曜日

社医学けん玉大会1992年


1992年この文化祭の中で、けん玉大会(けん玉争奪戦)も行いました。
私は審判する方をしました。
けん玉倶楽部メンバーも、そうでないメンバーも参加しました。
けん玉は子供の遊びだと思っている人もいるかもしれませんが、やってみると誰もが本気で、盛り上がる競技であることを実感させられます。
この写真は、社医学創立20周年誌に載った記録に残った記念すべき写真です。

社医学競技けん玉クラブのけん玉トロフィー


社医学での競技けん玉クラブでは、ふくろう祭の時にけん玉大会も開催していました。
また、新入生の歓迎会では、けん玉披露で盛り上がりました。その時に盛り上げるのによく使ったのが、けん玉トロフィー!
クラブのメンバーでお金を出し合って購入。当時(1991年)日本けん玉協会から、12000円で購入しました。

2010年2月4日木曜日

藤原一生先生の講演 当日

平成3年11月3日午前11時〜12時
社会医学技術学院の講堂での講演会を行いました。

〜 オカリナ演奏 〜
最初に、オカリナを歌う会による演奏をしました。
このときに演奏した曲は、事前に藤原先生に聞きたい曲を尋ねておいて、その曲を演奏するようにしました。私とナベさん、イザワさん、テンキュウさんの4人に、ピアノ合わせて5人で演奏。汽車の歌が好き!とのお返事を受けて、汽車の曲などを演奏。

〜 講演 〜
そして、本命の藤原先生の講演が始まりました。すぐ始まるかと思えば、そうではなく、壇上にある花瓶を動かして、それから話し始めました。まず花瓶を動かすことをするのが、藤原式なんだとか。
人 生の解剖!「こんな題名にしなければよかったなあ!」と言いながら話話し始め、幼少の頃、紙芝居をしてもらえた人も戦争へ。代わりに紙芝居をしていたこ と、戦時中の話、戦争にロシアへ行き、最前線で後ろの人が銃に当たったのに、なぜか負傷しなかったこと。新聞記者時代のこと。童話作家としてのこと。南極 物語のこと。けん玉との出会い、日本けん玉協会を発足したこと、文部大臣杯を申請に行った時のことなど、話していただきました。途中、後ろの壁に貼って あった文字が、転落。これを話の中に入れながら、笑いも入れて話されました
最後に、けん玉の実演。といっても藤原先生がするのではなく、学生を前に出させてのゲームを披露させました。
名付けて、「アイ ラブ けん玉!」知る人ぞ知るゲーム。とめけんの応用技で、輪に並んで、隣の人の玉にけんをさし、一周して輪になったら、全員で「アイ  ラブ けん玉!」と叫ぶゲーム。これを何秒でできるか?をチャレンジするもの。最初は、このことばを言うだけでも恥ずかしい雰囲気。最初は要領もわからず 時間がかかり、その時間よりも早くするように、何分でできるまでやるぞ!と先生から言われ、事態は深刻な雰囲気に。さあできるか??とみんなが集中!する と、時間内クリア。やればできるんだよ!と励まされて、講演は終了しました。

「あかい目」という本を先生は持参して、その場はサイン会に。
「この本は自分の実話なんだよ」と。
記念に買っていく人がたくさんいて、完売。

そして、スタッフで先生を囲んでの話す機会が与えれました。
そ の時にわかったのですが、藤原先生は「体調を前日から崩し、家族からはキャンセルしたら?!と言われていたのだけれど、どうしても行ってあげたい!と言っ て、出てきたんだ」と。「それで、息子さんが自動車を運転して、付き添うことを条件に、何とか来ることができたんだよ」と。

最後にお礼を手渡すと、先生は本を売ったお金を全部、私に渡して、「これで、今日みんなで食べに行きなさい。お疲れ様!!」と。スタッフみんながびっくり、そして、感動しました。
けん玉って、すばらしいと思った、そんな講演会でした。
心のこもったけん玉。
戦争を体験して、どれほど平和を望んだことでしょうか。
藤原先生が言われる「け ん玉のひびきは、平和のひびき!」と言われることばは、他の誰が言ったことばよりも実感のこもった言葉として、感じたのでした。
これ以来、「けん玉のひびきは、平和のひびき」ということばを大切したいと思っています。

平成3年社医学文化祭に藤原一生先生が講演!

藤原一生先生のお家に行くことをアポイントとり、Jさんと二人で、田無のご自宅へ。
そして、社医学での文化祭で、ぜひ講演をしてほしいと、話をもちかけたところ、こんないい学校なら、ぜひ、講演してあげたい!とお返事をいただきました。どんなタイトルにしようか?と考え、医学の学校だから、解剖がいいかな?解剖、、。人生の解剖と題して話そう!と。
快 く受け入れていただけました。「僕はね、学校もまともに行っていないのに、学校の先生方が、私の話を聞きたい!と言ってくるんだよ。」と子供の頃の話や、 紙芝居をしていた頃の話などを伺いました。詳しくは、この講演の中で、ご自分の人生の内容を解剖するという内容での講演となったのでした。文化祭のエピ ソードは次回につづく。

社医学でのけん玉クラブができるまで

社医学(社会医学技術学院)に 1990年に夜学の理学療法学科に合格し入学しました。病院に勤務しての夜学ということで、体力をつけないと大変だと思い、ウエイトトレーニング部に入 り、筋トレをすることにしたのですが、そこにいっしょに入部した友達Jさんと出会い、彼にけん玉の話しをしたのがきっかけで、彼が日本けん玉協会の会長に 会いに田無へ行き、会長から直接、本やビデオを購入して来ました。それを見てびっくり!この行動力にはびっくりしました。
入 学して半年もたたないうちに、ウエイトトレーニング部の活動の後半は、なぜかけん玉をいっしょにするようになり、それも先輩はほとんどいないクラブ状態に なっていたこともあったのですが。Jさんは、人を誘うのが上手で、ウエイトトレーニング部が、気がつけば、けん玉クラブ化していました。
そこで、別に「競 技けん玉倶楽部」を発足し、私が部長でJさんが副部長になり、毎日のようにけん玉をするようになりました。部として学生自治会に登録し、翌年には部活動と しての活動費を申請するようにし、活動費で、カウンターや、ストップウォッチなどを購入ました。
学 校の授業が終わると、けん玉して、夜10時30分に学校を出て、飛騨高山という飲み屋で夜食を食べて、帰ったら夜の0時といった日が多かったように思いま す。忙しかったけど、楽しい思い出になっています。
時には、帰りの電車の中でけん玉をすることもありました。できると拍手をもらったことも。これは帰りの 電車がかなり空いていたこともありましたが。
名前に競技とつけたのは、スポーツとしてのけん玉の意識をもってする意味を込め、倶楽部としたのは、どこまでもけん玉を通して楽しむことを大切にしたいという意味を込めたのでした。

けん玉との出会い

私は、けん玉と高校の時に出会いました。
それは物理の高校の先生からの紹介でした。
物理が好きなら、けん玉をしたら?と。けん玉の重力、運動エネルギー、位置エネルギー、モーメント、ベクトルなどを書いていったら、1冊の本になると言われたのを覚えています。

小学校の頃にヨーヨー(アメリカンヨーヨー)が流行り、かなりしたのですが、翌年には流行からはずされため寂しい思いをし、何か流行に関係なく、ロングラン でできるものはないものか?と思っていたところに、この話があり、さっそくけん玉を購入しました。
そのときにはけん玉の種類があることも知らず、けん玉愛好会のけん玉を購入したのでした。

北海道の旭川の北に位置する士別市で生まれ育ったので、周りにけん玉の名人はいませんでした。そういう中で、独自のけん玉の技を自分流でしていました。
当時 「灯台」、「さかおとし」までは、自己流でしていました。高校時代は吹奏楽局、新聞局、写真部に所属し、その合間にけん玉をしていました。
家での勉強で眠 くなるとけん玉。気分転換にけん玉をしていました。
当時の技量は、おそらく1級位のレベル(日本けん玉協会での段位認定に基づく)だったと思い ます。
「灯台」ができると周りの人がびっくりするので、天狗になっていたようにも思います。

日本文化の一つとして、子供から大人、さらに70,80歳になってもできるもの。
老後まで続けられるもの。
ここにけん玉のよさを感じます。
子供だけの遊びではなく、3世代がいっしょに楽しめる!
今の時代に100年以上の歴史を持ち、長く続いてきたものには深く味わいのある世界がある!
と確信し、今も続ける私でした。(50+△歳)