2012年12月26日水曜日

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2012年12月26日 1,000アクセス 

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「ふりけんは、人生の壁」

これは藤原先生がよく口にしていた言葉の一つ。

ふりけんでつまずく人が多いんだよね。
ふりけんって、玉の穴が見えてないとできない。
けん玉の良さ、素晴らしさがわかる技。それがふりけん。

人生の壁を越えた所に、けん玉の素晴らしさと出会える。

「ふりけんは人生の壁」

とても味わいのある言葉ですね。
社医学時代の大会前の練習風景


2012年12月25日火曜日

表題を変更しました!けん玉SHUさん☆藤原一生先生を慕って

メリークリスマス!今日は12月25日ですね。
今現在、藤原一生先生の講演を少しずつアップしています。

「SHUさんのけん玉1990年代」という題でしたが、
この講演会をアップして行く中で、
私がなぜけん玉をするのか?自分の原点を尋ねてみた時に、藤原一生先生との出会いが、人生の分岐点のように思われ、その中でもこの講演会の内容が今もなお私の中に生きているように思えるのです。

社医学時代のけん玉クラブ、けん玉の大会などもありますが、
藤原一生先生の姿が、今も私の心の中に焼き付いているのです。

そのため、
「けん玉SHUさん☆藤原一生先生を慕って」
という表題に変更しました。


なぜ、20年経った今、この講演会をアップするのか?
今だからこそ、けん玉協会の草創期の内容、藤原一生先生の語る
「けん玉のひびきは、平和のひびき」の深い思い。
生きることの尊さ。
文部大臣杯は、私が思うには、一種の天下統一だったのではないか?そう思うんです。
日本国中の子ども達が、いっしょにけん玉をすること。
全国で統一基準のけん玉の技で競う平和の祭典。

私が思うに、これからの未来のけん玉は、世界大会の実現。
関西総支部長の矢野さんは、藤原一生先生の思いを乗せて、世界大会を今年大阪で開催し、その大会の名称を「藤原一生杯」と改めました!

私の夢はオリンピックで、けん玉!
けん玉、平和のひびきを世界中に響かせる。

できれば、藤原一生先生のお住まい、田無で、けん玉大会を実施してみたいと思っています。

夢を抱いて、執念をもって、あきらめない!そう藤原一生先生から教わりました。

みなさんも夢を大いに抱きましょう!
些細な夢でも良いのです。

これからもどうぞよろしくお願い致します。

藤原一生先生の講演その11

文部大臣室で、感動の「けん玉指導」

で、その次に、
大臣;「今日来た目的はそれはわかっていますから、言わなくても結構です。先生には文部大臣杯を差し上げます。」

その時に大臣が
「大きいのが良いですか?小さいのが良いですか?」
これは二つ目の質問ですね。

私は当然、文部省が大きなトロフィーをくれると思ったんですよ。
私はペレのテレビのシーンがぱっと浮かんで、
待てよ。ここで大相撲みたいにこんな大きなトロフィーをくれ!なんて言うと、藤原一生は欲深いな。と思うんじゃないかと。
この人は僕を試しているな。と思うから、

一生;「はっ、大臣、僕は小さなカップが欲しい。
ペレがキスするようなのが良いです。」と言ったら、

大臣;「ああ、先生は欲がないですね。」

これはしめたな。当たったなあと思ったんですね。
ところがそうではないんですよね。
終わって、全部あの事務官からもらったら、
1枚の紙きれなんですよね。

文部大臣杯の名義を使用して良いという許可証なんですね。

で、結局、文部大臣杯に、文部省に、文部大臣杯に相応しいトロフィーは、
ご自分で作りなさい。ということなんです。

あれにはビックリしたんですね。

ですから、
今、こんなに立派な100万円のけん玉トロフィーね、意地でも作りましたね。
すごいの。
今年も8月の23日かな。
サンシャインでやりますから、見に来て下さい。

私は、文部大臣室にいた時に、

正確に測った時間は28分。
これはもう忘れないですね。

え〜、本当に忘れない。タイムですね。
これは文部省の、文部省付きの秘書官が言ったのですが、
「こんなに長く、滞空記録って言っていいかな?表現が思いつかないんだけど、飛行機で言えば、滞空記録ですね。こういうのは珍しいです。」と言ってたんです。
で、それはどういう事かというとね、秘書官が何かサインを出すんですね。こうやって何かね。そうすると時間ですから。って催促なんですね。
したら、大臣が「えっ、ちょっと待って。休憩取らせてよ。今童心にかえってるの!」と言われてね。
そして、
あと、ふりけんのコツを教えましたね。
いいですね。文部大臣室で、大臣に教えて。
西岡さんがやって、パッと
「おっ!おぬし、やるじゃないか!」って、僕、思わず言っちゃった。「おぬし」って。
で、笑ってたね。
友達ですね。うまいじゃないですか!
大臣;「先生、僕はね、子どもの頃ね、ガラスで削って遊んだんです。」
一生;「やるやる!大丈夫だ。おっ。そこだ!そこで引けば入ります!」

入っちゃった!
うれしかったですね。

それで28分です。

2012年12月24日月曜日

藤原一生先生の講演その10

 文部大臣とのやり取り〜天動説〜

それで、私がここに座っていると、西岡先生がここで、こう、やってね。
その時に、一番最初に大臣の第一声が、何を言われたかというと、
「先生はなぜ、今までもっと早くここにお座りにならなかったのですか?」と言われたんですね。
で、僕は、「それは天が動かなかったんです。」って言ったんですね。
「天動説です」って言ったんです。天が動かない。天動。ご自分でね、膝に字を書いておられるんです。それをこうね、
ぱっと逃さないのが作家ですね。
文部大臣の指先がね、字を書いていましてね、
一生;「あっそれ違います。それは「童」っていう字です。それは山形県の天童。確かに童のようになると自然にピシッと力が入る意味もありますが、私らの場合は、ガリレオと同じで、天が動かなかったっということなんです。」

大臣;「あっ「動」ですか?」

まるで国語の時間でしたね。

そういう瞬間というのは、文部省の記録の中に残すべきではないですかね。
初めて、そこで、漢字の意味、日本語の意味の深い、日本語の美しさについての大臣と自身とのやり取りがあったんです。

大臣;「それはどういうことですか?」
と言われたから、

一生;「私は政治力で、原文平さんとか北杜夫さんとか、偉い人いっぱい知っております。で、そういう人たちからここに座るのはできたでしょうが、僕はそういうのが嫌いなんです。自然に座りたい。天に連れられて、ここに座る時期を待ってたんです。それが、今日来たんです。
大臣;「あ、そうですか。」

2012年12月19日水曜日

藤原一生先生の講演その9

文部省に行って呼ばれるまで

次の日、私とにかく行きました。規定の時間通りに。

そうすると、文部省というのは汚い昔のビルでね。ゴキブリがいっぱい這っているようなものすごい汚いビルですね。あんな虎ノ門のいい所にあるのにね。
2階に上がると急に赤いじゅうたんが敷いてあるんだよね。赤いね。偉い人が歩くところだけ、じゅうたんが敷いてあるんだよね。
僕はね、貧民街で育ったせいか、ひねくれ屋なんだよね。そういうのがね。
丸めて、どかして歩きたくなっちゃうんだよね。
で、あそこのじゅうたんを丸めてどかしたら、どこかに連れて行かれちゃうんだよね。
じゅうたんを歩いて行きましたが、
待っていること、30分くらいですね。

その間に、僕はひねくれ屋ですから、
腕時計をこう外しまして、それで、時計をこう見ていたんです。
テーブルの上に置いてね。それで、僕はどういう訳か、並んでいる列のところには置かないんですよ。なぜか知らないけど。
あのよく皆さんが、カメラマンなんかが写して、じゃあ、フラッシュたいて、総理大臣なんかが部屋に入っていくでしょう?ああいうような狭い所で横にね、きれいなソファーがあったんですよ。1人は座れるね。
中にいる声がみんな聞こえるんです。文部大臣の声が。

で、ある人は偉い学校の総長ですね。秘書などを連れて。
「なになによろしくお願いします。」
見ていたら、15秒で出てきたね。

だいたいね、長くてもね30秒から45秒。

ちょっと長いなと思ってもね、1分30秒くらいね。

それから、一番長い人で、局長とかいろいろな打ち合わせですね。で、それでせいぜい2分くらいですね。

突然飛んできたのが、あの福岡の方で自民党の議員が選挙で落選かなんかするんだよね、衆議院かなんかが。それで、大騒ぎしているちょうどその時に当たったんですね。
その時に先輩の議員が来られましたね。
その時で一番長くて3分でしたね。
ただあの時に、西岡先生が偉いなと思ったのは、先輩を入り口まで送って、廊下の所まで。それで、「今日はどうもご苦労様でした。」丁重な丁寧さで、ビックリしたんですね。
それから、並んで皆さんに「もう少しで終わりますから」って、政治家だなあって見てましたね。

その次にいよいよ、僕が呼ばれたんです。

※旧文部省庁舎↓
http://urbanreallife.blog52.fc2.com/blog-entry-228.html

2012年12月10日月曜日

「タロ・ジロは生きていた」の復刻版入手

藤原一生先生著の「タロ・ジロは生きていた」
これは、すでに売ってないかと思っていたら、2004年に復刻版が!
2006年に復刻2刷が出て、この2006年のものを購入。
この感動の話。藤原一生先生を知る上でも、欠かせない一冊と思い、購入しました。

藤原先生が今もここに生きている。そんなことを感じつつ。

2012年12月4日火曜日

藤原一生先生の講演その8

文部大臣からの電話

ですから僕は、インタビューをしながらも「文部大臣杯がほしい!」
って言っていたら、本当にその願いが文部省に伝わって、
ある時、秘書官から電話があって、秘書の方から電話で、「誰それですが」って来て、替わって僕が出た時に
「藤原先生ですか?西岡です」って言うから誰だろうな、と思って。
 まさか文部大臣だとは思わなかったですね。
「明日お会いしましょう!おいでなさいよ。」非常に気楽な声でしたね。
 この時も、私には一つ、。
 あの、神様とか、仏様とか、ということばは僕は避けているんですが、
 っていうのは、日本けん玉協会会長という仕事をやってますと、あらゆる点に超党派でなくてはいけないんです。うちには日蓮宗、天理教、キリスト教、あらゆる人が来ます。それから、思想も。公明党、自民党、社会党、共産党。赤旗新聞にも出ます。公明党新聞にも出ます。ですから、超党派でなくてはいけない。どんな主義の人でも、子どものために尽くしてくれる人なら、みんな友達ですね。
 ですから、私は自民党とか、社会党とか、そういうことは、自分では名乗らないんです。ですから、神様、仏様とかそういう表現を避けるために、「天は」という言葉を使います。

 文部大臣からの電話をいただいた時には、私、自宅におりました。自宅にはその恩師、その本(あかい目)の主人公の先生、恩師は生きておられます。
 これは、私の自伝童話です。作り事ではないんですね。
 それを先生からの依頼で、中学校に講演に行って、夕方に帰るつもりでいたんです。
 夕方に帰ったら、うちの家内が、文部省の電話を聞くだけで、僕は聞かなかったと思います。

 それが何が間違ったのか、教頭先生が3時頃の帰りの切符、急行券を買っちゃったんですね。それで、「あっ!」と思ったけど、それで乗って帰るわけです。

 それが、一つの不思議でしたね。
 天の動きというか、天の命令というか!
 自然の風ですね。

 で、家に帰って、風呂上がって、バスタオルで拭いてたら、
「お父さん、文部省から電話!」
「えっ?」って言って、パンツのまんま拭きながらですね。
 うちの家内はその場に聞いたのを。
 その時、僕はパンツはいて、バスタオルで汗を拭いていたんですね。

 天下の文部大臣杯たるものがね。

2012年12月3日月曜日

藤原一生先生の講演その7

 一番最近ですね、私の感動の運命的なドラマは、雲仙の6日間がありましたけれども、それは別にして、
 文部大臣の直の声を聞いた時は非常に感動しましたね。
 今日のドラマの話の扉にしていきたいと思います。
 ここから本題だと思ってください。

文部大臣杯争奪戦をやってあげたい!

10年間ぐらい新聞を見ますと、必ず最後にですね、
 日本中の子ども達のために、僕はなんとしても子ども達のために
 文部大臣杯をなんとしてもとりたい!
 文部大臣杯争奪戦をやってあげたい!それが願いでしたね。
 で、あらゆる新聞にですね、週刊誌、あらゆる新聞に出ました。
 それから、テレビも徹子の部屋、昼のプレゼント、あのイレブンPMなどあらゆる番組に出していただきましたね。
 普通我々おいちゃんが出るには、こういうのを脱ぎまして、かぶってね、こうやってね引っ張れて行く風景。(笑い)なんかねありますね。代々木警察署に連れて行かれる、そういう時でないとテレビには出られませんね。
 それが、みんな、テレビ朝日の旗のついたすごい高級車に乗せられて、そして、徹子の部屋に出た時に、僕はあの声が未だに印象的に残っているんですけど、。
 始まる前にですね、来て、黒柳さんがご挨拶して、プロデューサー何人かいて、1人とは限ってないですね。
 1人の若い子が来て、「先生、あなたの座っているその布団には三日後には玉三郎さんが座るんですよ。」
 それが何だっていうんですか?バカ!
「ぱっとみたら見えないでしょう?」
 ああそうですか。じゃ、そこに僕は座っちゃいけないってこと?って言いたくなちゃうよね。僕はひねくれてますからね。
 それに気がついたらしくて、
「いやいや、先生、なんとかかんとか、、。」と言ってね。逃げちゃいましたけど。

 頭に来ましたね、僕ね。
 なんだ!こいつ!と思ったですね。
 でっ、あの、そのような感じで、楽しいテレビに出していただいたり、、。

 そういう中で、
 自分の願いというか思想っていうかな、一つの焦点をやりぬいていく、接近していく、突き破って行く、握りしめるっていうかな、キャッチするっていうか、捕まえるまでは、執念深くやっていく。
 まあ、作家ていうのはね、執念がなければ出せないですね。そういうもんなんです。
 執念というのが、大切です。
 あなた方の人生にも当てはまる。

続きは↓
http://kendama65memory.blogspot.jp/p/blog-page.html

2012年12月1日土曜日

藤原一生先生の講演その6

船の科学博物館での撮影

僕が今その風邪ぎみの原因になったというのは、三日ぐらい前ですね。
 読売新聞が突然来て、東京湾に接岸してある船の科学博物館がありますね。宗谷、そこ行って、写真をとらせてくれという、ありがたい話ですから、10月31日です。
 行ってきました!

 まあ、田無からね、東京湾の地まで、遠かったですね。自動車でいくら読売新聞の旗をパタパタといって、気分いいにしてもね、まあ遠かったですね。はるか彼方ですね。
 このカメラマンが凝っている男でしてね。ほんとに凝りに凝っている男で、2時間近く、風にさらされたんです。甲板のところに立って写真を撮らせてくれとか、いろんなあらゆるところで撮りましたね。
 その時に正直、感じたことは、私がタロウジロウの本を書いたのは昭和37年で、ものすごくその遠いですね。昭和37年っていったら、皆さんが生まれたころじゃないかなって僕は思うんですよね。
 うちの次男坊が生まれたのは昭和30年で、ですから、まあ、今それが30いくつですから、あなた方は生まれたか生まれてないかということでしょうね。
 そのころのその宗谷との出会いタロウ、ジロウとの出会い。それがなぜ今ね、今僕にその宗谷までね引っ張りだされるのか、
 「宗谷」っていうと、タロウ、ジロウの頃の方々ね、まだ生きてますね。その方を連れて行けば良いではないですかね。
 なんで今、そこに作家が必要なのか?そういうことを自分では考えないようにしてます、深くは。すべて天の指令と思っております。

 まあそういうわけで、あの、多少体調は崩しておりますが、これから30分くらいご勘弁して聴いてください。

 え〜、あの人の名前、最初に聴いておけば良かったですね。
 また、ぱあと落っこっちゃったのが気になっていると思うけど、気にしないでね。いいじゃないですかね。みんな落っこちちゃってもね。気にしないでください。
 僕が何か始めようとすると、動くんですね。

藤原一生先生の講演その5

「人生の解剖」という題について

さて、今日、これからですね、自分の生きざまを通して、皆さんに、、。
 変な題を考えたもんです。僕もね「人生の解剖」なんてね。「青春の解剖」って付けるのが普通ですね。
 佐藤君、吉本君が家に来た時に、学校の名前が医学なんてついているからつい「解剖」としたんでしょうね。
 で、私は色紙によく「けん玉の美は隣りの窓辺にあり、人の美は心の窓辺にある。自分に厳しく!」と書きます。
 それは、自分にいつもメスと入れなさい。自分の児童文学の場合にもですね、自分にメスを入れろ、という児童文学の講義を致します。よく医学的な用語を使います。

 それにしても今日は変な題をつけたな〜と僕は思いますが、まあ、人のことはともかく、私がたくましく必死に生きてきたいくつかの話をしながら、皆さんの参考になっていただければありがたいと思っております。

2012年9月9日日曜日

1986年5月25日のコラム(藤原一生先生)

藤原一生先生の紹介記事です。

今回の講演の中に出てくる朝日新聞のコラム(記事)を紹介します。

人・味と出合う
ソウメン 初めて家族の愛を実感

 昭和21年秋、荻窪のキリスト教会。書店に勤めていた藤原さんは、焼け残った礼拝堂で結婚式を挙げた。22歳だった。1歳年下の妻とは勤め先が同じビルにあり、かいわいで評判の美人だった。ほっておいたら進駐軍に取られてしまう、と猛然と攻めた成果だった。
 式がすんで、牧師の家で20人足らずの参列者と披露宴になった。テーブルには、黒々としたソウメンが運ばれた。牧師夫人が前日、やみ市で手に入れてきた。
 「海草を原料にしたソウメンでした。食糧難の当時としては大変なごちそうだった。しかし、私にはそれ以上の意味があったんです。実はそれまで家族と食卓を囲んだ警官がなかった。黒いソウメンは、家庭の味の出発点でした」
 藤原さんは少年時代を深川で過ごした。食事の記憶はスラム街の一昭(ぜん)飯屋。出稼ぎの日雇い労働者や行商人らでごった返す店の片隅で、ひとりで麦飯をかき込んだ。「たまに見かねた大人がおかずを分けてくれましたよ」
 小学四年生のとき、藤原少年は近くの教会に預けられた。当時の牧師はこう語る。
 見るからに栄養不良で、頭ばかり大きな、暗い目をした子でした。物心もつかないうちに両親が離婚。酒ぐせの悪い父に手をひかれ、転々と流浪を重ねて東京のどん底に落ちて来たという話だった。父親が酒の上の過ちで警察に引かれて行ったため引き取ったが、すき腹を抱えてひとり木貸宿や路地で育っていた。うそや盗みの知恵を身につけて、しかられても涙を流さない子になっていた。
 藤原少年はある日、牧師の机から小銭を盗んで逃げた。気づいた牧師は少年を見つけ出して教会に連れ帰ったが、しからずに少年を横に置いてただ祈り続けた。涙のためた牧師の目を見て、少年は初めて孤独から解放された。後年この体験をもとに書いた童話「あかい目ーぼくのイエスさま」はロングセラーになった。
 まもなく父親の元に帰ったものの、暮らし向きは相変わらず。小学校を卒業すると印刷所へ住み込みで就職した。
 昭和19年秋に陸軍に入隊し、中国大陸へ。
 食事時になると、新兵の藤原二等兵は、数十人のみそ汁の入ったたるを天びん棒で担いだ。ずっしりと肩に食い込む。よろける。こぼしでもしたら大変である。それでなくても古参兵から鉄拳(てっけん)制裁の毎日だった。
 みそ汁の貝は毎食決まってナスだった。戦況は悪化の一途、ナスしか入手できなかった。なぜか腐ったようなにおい。胸がむかつくが、逃げられない。軍隊のにおいそのものだった。
 昭和20年12月復員するやいなや、9ヶ月前の東京大空襲で行方不明となっていた父を捜した。三日間、下町を歩き回ったあげく、公園の一角に仮埋葬された父と再会した。
 「親らしいことは何ひとつしてくれなかったおやじだったんですがね、、、。こういう感情は説明がつきませんね」
 結婚して男の子が二人生まれた。田無市北原二丁目に住む。妻の料理は、ナスみそ汁以外、すべておいしい。家族そろった食卓で、ときどきわけもなく涙がこぼれてきて、はしが止まる。


2012年8月18日土曜日

藤原一生先生の講演その4

体調不良の中での講演会

僕は、実はですね、今日のお仕事を果たして来られるのかなと思ってね。非常に不安だったんです。
私は息子が二人います。二人ともカメラマンです。
今日、次男坊がここまで車で乗せてきてくれました。
どういうことかというと、風邪ぎみで熱がちょっとあって
薬を飲んだせいか、喉がカラカラで、。
こういうことは珍しいんですね。

島原の6日間ですね、1日3ヶ所でやって、汗がもう体中にバーっと出て、汗が落ちる中で、これぐらい(小指を指す)の汗が落ちる中でけん玉をやって来ましたね。
島原の偉い人が、「けん玉というものは目の前に立って静かにやるものかと思っていたら、右左飛んで歩いて、猿之助を思い出した!」というなことが言われたぐらい激しく身体を動かします。
灰が吹っ飛んで来るので窓は開けられません。本当に暑かったです。
帰ってきた時も身体がガタガタで、次の日に、2日おいて
山形に移動したわけです。どうにか行けたんです。

その日は山形中から1300人がお年寄りが勲章をもらう日で、3年に一回とか、県議員、衆議院議員、参議院議員などが来られる大きな大会があったんですね。1300人の偉い老人が集まって、そこの開会の記念講演会を頼まれていたんです。ですから、非常に気を使ってですね、この大会に出ないと行けないから、非常に身体に気をつけます。

その二人の息子にも男には常々言うんだけれど、
普段、だらだらしていても良い!本当にだらだらしていて、あいつはバカじゃないかと言われるくらいだらだらしても良い!
だけど仕事が近づいたら、ピシっとこなさないといけない!

僕はいつも、息子たちに何の教訓も言わない。小学校4年くらいまでしか行ってませんから。教育的なことは言わない。
ただ人間の生き方を、人間とは何か?男とは何か?女とは何か?
そういう話をしているだけです。

そういう僕は、今日ここで、発熱して倒れたら、佐藤君、吉本君になんと言ってお詫びしたらよいか。そうですね、このね、20年間くらいないんでないかな?30年間くらいこんなんなったのは。

でも、今、昨日から、昨日息子が来てくれて、煮炊き食べて、うんと汗かいて、飲んで非常に気分がよくなってありがたいんですが、
いつもの美声ではないんですが、
声だけご勘弁ください。

藤原一生先生の講演その3

スタジオの解剖についての続き

(壇上に上がる際、真っ直ぐには上がらず、立ててあった飾りに寄り道して壇上に上がる)

皆さんこんにちは、どうも。
このマイクもスイッチ入れないと入らないですか?(笑)
これ入ってますか?(はい。)

私が少し下にいたもう一つの理由は
お名前は知らないけど、向こうの非常に気をきく、一人で働いている方、メガネかけてる、あの方がかかっている「ふ・く・ろ・う」の文字のさっき「ふ」が落ちたんですね。今度は「く」が落ちたんですね。それをいちいち気にしてこうね、止めに行くんですね。僕は感動してるんですね。あの人は一人で題を上げたのかな?

ピタっと落ちると気にしてる、今もあれがはがれるかなって気にしてる。

今日は縁起がいいですよ。「ふ」をかえて「く」をかえて、あなたは来週から福が来ますよ!

2012年8月15日水曜日

藤原一生先生の講演その2

藤原一生先生が壇上に上がる前(2)

それから、もう一つ。
♫今は山中、今は浜♪〜あれは僕が30年頃ですね。
まだ書いても書いても売れない童話作家になったのはいいけれども、昭和29年の4月にですね、僕は7年間勤めた銀座のとある本屋さんを辞めまして思い切って作家になったわけです。
そのころ、僕は29歳です。
その時にある一冊の本が出て、華々しくスタートしたんですが、それは売れません。1年くらいね。

そのころ、共同通信社で日本中の新聞に童話募集をしてたんです。
良い童話を書くと鹿児島からね同じ作品が出るんです。3枚もんです。
その当時で3000円くれんですよ。うれしくてね。
登竜門なんです。そこを経て段々出て行くんですね。
その原稿を置いて、そして枯れ葉の音がしてね。帝国ホテルの前、日比谷公園、そこには赤レンガが敷いてあったんです。今も敷いてあるかな?からからって音がしてね。
3000円手に入るかな?入らなかったら米どうしようかな?
その時に、1年生になる幼稚園の子どもがいてね。
ですから、
女房と3人でどうやって生きて行くか?
お米屋さんが素通りする。
そういうのは、
朝日新聞のコラボに書いてある通りです。

そのころ、新聞社に原稿を置いて
日比谷の十字路を立って歩いていて、自然に口から出て来たのが、
♪今は山中今は浜〜♫
それがね、
今は苦しい、辛いけども 絶えて行けば、絶えて行く必ず光がある!闇を貫けるんだ!と。何かそれがね、
自分の我でおしているのではなく、我で歌っているのではなく、自然に湧いて出てきましたね。それを思い出してね、この1曲を入れて下さいって。
ですから、佐藤くんにこの歌を頼んだんです。

珍しいでしょ、壇上に上がる前にこうして話すのは。

(拍手)

(藤原先生は壇上へ上がっていく。)

 

2012年8月12日日曜日

藤原一生先生の講演その1

藤原一生先生が壇上に上がる前(1)

今ここはちょっと付録です。
スタジオの解剖についてやりたいと思います。
え、あの、今ここでですね、このマイク入ってますか?

この辺から僕の人間性が表れます。

さっきから非常に気にしているのはですね。
あそこに皆さん見えますか?、つい立て。
今僕はこっちから上るのか、向こうから上るのか?考えている訳です。

私も今、正確に言いますと。疎開学園へ自転車に紙芝居とか人形劇とかいっぱい積んで自分で走って行って、戦争の空襲から逃れて両親から離れて生活している疎開学園の子ども達への慰問を始めました。その時17歳。
その17歳から現在まで、ずっと子どもの世界に生きてきたわけです。

今は67ですから、50年間。
いろんなステージ、いろんな講壇、いろんな所でお話しました。ピンからキリまで。

でもね、僕、今、ここに座っていて、感動しているの!
何に感動しているのかというと、皆さんはごく見慣れた風景だからどうってことないでしょうけど、いいですか?このステージ。このひもでいわいてある左右に分かれない苦労ね。すごいね。それから、これ何だろう?さっきから普段学校では何に使っているんだろう?
ここに僕は、足で上って良いのだろうか?それから、もう一つは、こっちから上ったら良いのか?向こうから上ったら良いのか?さっきから考え込んでいたわけです。
むこうから上がった場合は、ついたてでちょっと出っ張っているでしょう?
あれは、そそっかしい先生だったら、あれにつまづいて転んで額に血を流しますね。
この講師は落ち着いているのか?冷静なのか?それを見極めるために、つい立てが出っ張っているんだろうか?いろいろと考えているわけですね。

この学校はすごいな!
考えさせられる学校だな。
そのようなスタートを今しているわけです。

2012年7月9日月曜日

藤原一生先生の講演「人生の解剖」

藤原一生先生が、リハビリの学校である社医学に来ていただき、講演された内容を少しずつではありますが、紹介していくことになりました。

先生の奥様である敏子さんにも承諾していただきましたことを深く感謝致します。

2012年7月9日 吉本秀一


2012年5月4日金曜日

初めて勝った公式戦での初白星(92年2月)

1992年2月9日(日)に、第8回全日本学生けん玉選手権大会と平成3年度けん玉全日本新人王決定戦が電通大で開催された。
私は、テスト期間中であったが、この新人王決定戦の方に参加した。
予選を通過できるのは、十数名の中からたったの4名。
予選では,私は30点満点中22点で、ぎりぎり4位で通過した。
この喜びもつかの間。
私のはじめの対戦相手は五明選手五段。

一本目の選技は「うぐいす〜けん」で、五明選手が一本先取した。

二本目は、「つるし一回転灯台」
これを私が取り、1対1の同点となり、タイム競技で勝敗を決することになった。

今回のタイム競技は、
とめけん、ふりけん、世界一周、飛行機をそれぞれ3回ずつ成功させるもので、
それになんと!
私が勝ち、優勝決定戦に進出することになった。

相手は、田中選手(高1)。
1回目、2回目ともに田中選手が取り、2対0で、私は敗退した。
田中選手が学生新人王となった。

社会人新人王には、松永選手がなり、この二人の一騎打ちで、全日本新人王が決定することになった。
激戦の結果、田中選手が全日本新人王に輝き、JKA全日本C級と第14回全日本けん玉道選手権大会の出場資格が与えられた。

 ☆フェアプレイ賞を受賞!☆

優勝以外の賞として、フェアプレイ賞、敢闘賞があり、このフェアプレイ賞に私が選ばれた。
その理由として、「社医学のメンバーの上達のめざましさと、吉本選手の公式戦での初の白星。そして、試合そのものがすばらしかった!」ことがあげられていた。

「社医学競技けん玉クラブ NO.3」(1992.4)  より

けん玉道四段合格は1992年3月29日

3月29日の午後1時から、中野サンプラザにおいて
第14回全日本けん玉道選手権大会予選会と春季認定会が行なわれ、
予選会では、敗退。
その後の認定会で、社医学からは3名が昇段級に挑戦。

私、吉本が四段合格!

今が2012年ですから、
20年前ということになりますね。

※この記録は、「社医学競技けん玉クラブNO.3」に載ってました。