2012年8月18日土曜日

藤原一生先生の講演その4

体調不良の中での講演会

僕は、実はですね、今日のお仕事を果たして来られるのかなと思ってね。非常に不安だったんです。
私は息子が二人います。二人ともカメラマンです。
今日、次男坊がここまで車で乗せてきてくれました。
どういうことかというと、風邪ぎみで熱がちょっとあって
薬を飲んだせいか、喉がカラカラで、。
こういうことは珍しいんですね。

島原の6日間ですね、1日3ヶ所でやって、汗がもう体中にバーっと出て、汗が落ちる中で、これぐらい(小指を指す)の汗が落ちる中でけん玉をやって来ましたね。
島原の偉い人が、「けん玉というものは目の前に立って静かにやるものかと思っていたら、右左飛んで歩いて、猿之助を思い出した!」というなことが言われたぐらい激しく身体を動かします。
灰が吹っ飛んで来るので窓は開けられません。本当に暑かったです。
帰ってきた時も身体がガタガタで、次の日に、2日おいて
山形に移動したわけです。どうにか行けたんです。

その日は山形中から1300人がお年寄りが勲章をもらう日で、3年に一回とか、県議員、衆議院議員、参議院議員などが来られる大きな大会があったんですね。1300人の偉い老人が集まって、そこの開会の記念講演会を頼まれていたんです。ですから、非常に気を使ってですね、この大会に出ないと行けないから、非常に身体に気をつけます。

その二人の息子にも男には常々言うんだけれど、
普段、だらだらしていても良い!本当にだらだらしていて、あいつはバカじゃないかと言われるくらいだらだらしても良い!
だけど仕事が近づいたら、ピシっとこなさないといけない!

僕はいつも、息子たちに何の教訓も言わない。小学校4年くらいまでしか行ってませんから。教育的なことは言わない。
ただ人間の生き方を、人間とは何か?男とは何か?女とは何か?
そういう話をしているだけです。

そういう僕は、今日ここで、発熱して倒れたら、佐藤君、吉本君になんと言ってお詫びしたらよいか。そうですね、このね、20年間くらいないんでないかな?30年間くらいこんなんなったのは。

でも、今、昨日から、昨日息子が来てくれて、煮炊き食べて、うんと汗かいて、飲んで非常に気分がよくなってありがたいんですが、
いつもの美声ではないんですが、
声だけご勘弁ください。

藤原一生先生の講演その3

スタジオの解剖についての続き

(壇上に上がる際、真っ直ぐには上がらず、立ててあった飾りに寄り道して壇上に上がる)

皆さんこんにちは、どうも。
このマイクもスイッチ入れないと入らないですか?(笑)
これ入ってますか?(はい。)

私が少し下にいたもう一つの理由は
お名前は知らないけど、向こうの非常に気をきく、一人で働いている方、メガネかけてる、あの方がかかっている「ふ・く・ろ・う」の文字のさっき「ふ」が落ちたんですね。今度は「く」が落ちたんですね。それをいちいち気にしてこうね、止めに行くんですね。僕は感動してるんですね。あの人は一人で題を上げたのかな?

ピタっと落ちると気にしてる、今もあれがはがれるかなって気にしてる。

今日は縁起がいいですよ。「ふ」をかえて「く」をかえて、あなたは来週から福が来ますよ!

2012年8月15日水曜日

藤原一生先生の講演その2

藤原一生先生が壇上に上がる前(2)

それから、もう一つ。
♫今は山中、今は浜♪〜あれは僕が30年頃ですね。
まだ書いても書いても売れない童話作家になったのはいいけれども、昭和29年の4月にですね、僕は7年間勤めた銀座のとある本屋さんを辞めまして思い切って作家になったわけです。
そのころ、僕は29歳です。
その時にある一冊の本が出て、華々しくスタートしたんですが、それは売れません。1年くらいね。

そのころ、共同通信社で日本中の新聞に童話募集をしてたんです。
良い童話を書くと鹿児島からね同じ作品が出るんです。3枚もんです。
その当時で3000円くれんですよ。うれしくてね。
登竜門なんです。そこを経て段々出て行くんですね。
その原稿を置いて、そして枯れ葉の音がしてね。帝国ホテルの前、日比谷公園、そこには赤レンガが敷いてあったんです。今も敷いてあるかな?からからって音がしてね。
3000円手に入るかな?入らなかったら米どうしようかな?
その時に、1年生になる幼稚園の子どもがいてね。
ですから、
女房と3人でどうやって生きて行くか?
お米屋さんが素通りする。
そういうのは、
朝日新聞のコラボに書いてある通りです。

そのころ、新聞社に原稿を置いて
日比谷の十字路を立って歩いていて、自然に口から出て来たのが、
♪今は山中今は浜〜♫
それがね、
今は苦しい、辛いけども 絶えて行けば、絶えて行く必ず光がある!闇を貫けるんだ!と。何かそれがね、
自分の我でおしているのではなく、我で歌っているのではなく、自然に湧いて出てきましたね。それを思い出してね、この1曲を入れて下さいって。
ですから、佐藤くんにこの歌を頼んだんです。

珍しいでしょ、壇上に上がる前にこうして話すのは。

(拍手)

(藤原先生は壇上へ上がっていく。)

 

2012年8月12日日曜日

藤原一生先生の講演その1

藤原一生先生が壇上に上がる前(1)

今ここはちょっと付録です。
スタジオの解剖についてやりたいと思います。
え、あの、今ここでですね、このマイク入ってますか?

この辺から僕の人間性が表れます。

さっきから非常に気にしているのはですね。
あそこに皆さん見えますか?、つい立て。
今僕はこっちから上るのか、向こうから上るのか?考えている訳です。

私も今、正確に言いますと。疎開学園へ自転車に紙芝居とか人形劇とかいっぱい積んで自分で走って行って、戦争の空襲から逃れて両親から離れて生活している疎開学園の子ども達への慰問を始めました。その時17歳。
その17歳から現在まで、ずっと子どもの世界に生きてきたわけです。

今は67ですから、50年間。
いろんなステージ、いろんな講壇、いろんな所でお話しました。ピンからキリまで。

でもね、僕、今、ここに座っていて、感動しているの!
何に感動しているのかというと、皆さんはごく見慣れた風景だからどうってことないでしょうけど、いいですか?このステージ。このひもでいわいてある左右に分かれない苦労ね。すごいね。それから、これ何だろう?さっきから普段学校では何に使っているんだろう?
ここに僕は、足で上って良いのだろうか?それから、もう一つは、こっちから上ったら良いのか?向こうから上ったら良いのか?さっきから考え込んでいたわけです。
むこうから上がった場合は、ついたてでちょっと出っ張っているでしょう?
あれは、そそっかしい先生だったら、あれにつまづいて転んで額に血を流しますね。
この講師は落ち着いているのか?冷静なのか?それを見極めるために、つい立てが出っ張っているんだろうか?いろいろと考えているわけですね。

この学校はすごいな!
考えさせられる学校だな。
そのようなスタートを今しているわけです。