2012年12月26日水曜日

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「ふりけんは、人生の壁」

これは藤原先生がよく口にしていた言葉の一つ。

ふりけんでつまずく人が多いんだよね。
ふりけんって、玉の穴が見えてないとできない。
けん玉の良さ、素晴らしさがわかる技。それがふりけん。

人生の壁を越えた所に、けん玉の素晴らしさと出会える。

「ふりけんは人生の壁」

とても味わいのある言葉ですね。
社医学時代の大会前の練習風景


2012年12月25日火曜日

表題を変更しました!けん玉SHUさん☆藤原一生先生を慕って

メリークリスマス!今日は12月25日ですね。
今現在、藤原一生先生の講演を少しずつアップしています。

「SHUさんのけん玉1990年代」という題でしたが、
この講演会をアップして行く中で、
私がなぜけん玉をするのか?自分の原点を尋ねてみた時に、藤原一生先生との出会いが、人生の分岐点のように思われ、その中でもこの講演会の内容が今もなお私の中に生きているように思えるのです。

社医学時代のけん玉クラブ、けん玉の大会などもありますが、
藤原一生先生の姿が、今も私の心の中に焼き付いているのです。

そのため、
「けん玉SHUさん☆藤原一生先生を慕って」
という表題に変更しました。


なぜ、20年経った今、この講演会をアップするのか?
今だからこそ、けん玉協会の草創期の内容、藤原一生先生の語る
「けん玉のひびきは、平和のひびき」の深い思い。
生きることの尊さ。
文部大臣杯は、私が思うには、一種の天下統一だったのではないか?そう思うんです。
日本国中の子ども達が、いっしょにけん玉をすること。
全国で統一基準のけん玉の技で競う平和の祭典。

私が思うに、これからの未来のけん玉は、世界大会の実現。
関西総支部長の矢野さんは、藤原一生先生の思いを乗せて、世界大会を今年大阪で開催し、その大会の名称を「藤原一生杯」と改めました!

私の夢はオリンピックで、けん玉!
けん玉、平和のひびきを世界中に響かせる。

できれば、藤原一生先生のお住まい、田無で、けん玉大会を実施してみたいと思っています。

夢を抱いて、執念をもって、あきらめない!そう藤原一生先生から教わりました。

みなさんも夢を大いに抱きましょう!
些細な夢でも良いのです。

これからもどうぞよろしくお願い致します。

藤原一生先生の講演その11

文部大臣室で、感動の「けん玉指導」

で、その次に、
大臣;「今日来た目的はそれはわかっていますから、言わなくても結構です。先生には文部大臣杯を差し上げます。」

その時に大臣が
「大きいのが良いですか?小さいのが良いですか?」
これは二つ目の質問ですね。

私は当然、文部省が大きなトロフィーをくれると思ったんですよ。
私はペレのテレビのシーンがぱっと浮かんで、
待てよ。ここで大相撲みたいにこんな大きなトロフィーをくれ!なんて言うと、藤原一生は欲深いな。と思うんじゃないかと。
この人は僕を試しているな。と思うから、

一生;「はっ、大臣、僕は小さなカップが欲しい。
ペレがキスするようなのが良いです。」と言ったら、

大臣;「ああ、先生は欲がないですね。」

これはしめたな。当たったなあと思ったんですね。
ところがそうではないんですよね。
終わって、全部あの事務官からもらったら、
1枚の紙きれなんですよね。

文部大臣杯の名義を使用して良いという許可証なんですね。

で、結局、文部大臣杯に、文部省に、文部大臣杯に相応しいトロフィーは、
ご自分で作りなさい。ということなんです。

あれにはビックリしたんですね。

ですから、
今、こんなに立派な100万円のけん玉トロフィーね、意地でも作りましたね。
すごいの。
今年も8月の23日かな。
サンシャインでやりますから、見に来て下さい。

私は、文部大臣室にいた時に、

正確に測った時間は28分。
これはもう忘れないですね。

え〜、本当に忘れない。タイムですね。
これは文部省の、文部省付きの秘書官が言ったのですが、
「こんなに長く、滞空記録って言っていいかな?表現が思いつかないんだけど、飛行機で言えば、滞空記録ですね。こういうのは珍しいです。」と言ってたんです。
で、それはどういう事かというとね、秘書官が何かサインを出すんですね。こうやって何かね。そうすると時間ですから。って催促なんですね。
したら、大臣が「えっ、ちょっと待って。休憩取らせてよ。今童心にかえってるの!」と言われてね。
そして、
あと、ふりけんのコツを教えましたね。
いいですね。文部大臣室で、大臣に教えて。
西岡さんがやって、パッと
「おっ!おぬし、やるじゃないか!」って、僕、思わず言っちゃった。「おぬし」って。
で、笑ってたね。
友達ですね。うまいじゃないですか!
大臣;「先生、僕はね、子どもの頃ね、ガラスで削って遊んだんです。」
一生;「やるやる!大丈夫だ。おっ。そこだ!そこで引けば入ります!」

入っちゃった!
うれしかったですね。

それで28分です。

2012年12月24日月曜日

藤原一生先生の講演その10

 文部大臣とのやり取り〜天動説〜

それで、私がここに座っていると、西岡先生がここで、こう、やってね。
その時に、一番最初に大臣の第一声が、何を言われたかというと、
「先生はなぜ、今までもっと早くここにお座りにならなかったのですか?」と言われたんですね。
で、僕は、「それは天が動かなかったんです。」って言ったんですね。
「天動説です」って言ったんです。天が動かない。天動。ご自分でね、膝に字を書いておられるんです。それをこうね、
ぱっと逃さないのが作家ですね。
文部大臣の指先がね、字を書いていましてね、
一生;「あっそれ違います。それは「童」っていう字です。それは山形県の天童。確かに童のようになると自然にピシッと力が入る意味もありますが、私らの場合は、ガリレオと同じで、天が動かなかったっということなんです。」

大臣;「あっ「動」ですか?」

まるで国語の時間でしたね。

そういう瞬間というのは、文部省の記録の中に残すべきではないですかね。
初めて、そこで、漢字の意味、日本語の意味の深い、日本語の美しさについての大臣と自身とのやり取りがあったんです。

大臣;「それはどういうことですか?」
と言われたから、

一生;「私は政治力で、原文平さんとか北杜夫さんとか、偉い人いっぱい知っております。で、そういう人たちからここに座るのはできたでしょうが、僕はそういうのが嫌いなんです。自然に座りたい。天に連れられて、ここに座る時期を待ってたんです。それが、今日来たんです。
大臣;「あ、そうですか。」

2012年12月19日水曜日

藤原一生先生の講演その9

文部省に行って呼ばれるまで

次の日、私とにかく行きました。規定の時間通りに。

そうすると、文部省というのは汚い昔のビルでね。ゴキブリがいっぱい這っているようなものすごい汚いビルですね。あんな虎ノ門のいい所にあるのにね。
2階に上がると急に赤いじゅうたんが敷いてあるんだよね。赤いね。偉い人が歩くところだけ、じゅうたんが敷いてあるんだよね。
僕はね、貧民街で育ったせいか、ひねくれ屋なんだよね。そういうのがね。
丸めて、どかして歩きたくなっちゃうんだよね。
で、あそこのじゅうたんを丸めてどかしたら、どこかに連れて行かれちゃうんだよね。
じゅうたんを歩いて行きましたが、
待っていること、30分くらいですね。

その間に、僕はひねくれ屋ですから、
腕時計をこう外しまして、それで、時計をこう見ていたんです。
テーブルの上に置いてね。それで、僕はどういう訳か、並んでいる列のところには置かないんですよ。なぜか知らないけど。
あのよく皆さんが、カメラマンなんかが写して、じゃあ、フラッシュたいて、総理大臣なんかが部屋に入っていくでしょう?ああいうような狭い所で横にね、きれいなソファーがあったんですよ。1人は座れるね。
中にいる声がみんな聞こえるんです。文部大臣の声が。

で、ある人は偉い学校の総長ですね。秘書などを連れて。
「なになによろしくお願いします。」
見ていたら、15秒で出てきたね。

だいたいね、長くてもね30秒から45秒。

ちょっと長いなと思ってもね、1分30秒くらいね。

それから、一番長い人で、局長とかいろいろな打ち合わせですね。で、それでせいぜい2分くらいですね。

突然飛んできたのが、あの福岡の方で自民党の議員が選挙で落選かなんかするんだよね、衆議院かなんかが。それで、大騒ぎしているちょうどその時に当たったんですね。
その時に先輩の議員が来られましたね。
その時で一番長くて3分でしたね。
ただあの時に、西岡先生が偉いなと思ったのは、先輩を入り口まで送って、廊下の所まで。それで、「今日はどうもご苦労様でした。」丁重な丁寧さで、ビックリしたんですね。
それから、並んで皆さんに「もう少しで終わりますから」って、政治家だなあって見てましたね。

その次にいよいよ、僕が呼ばれたんです。

※旧文部省庁舎↓
http://urbanreallife.blog52.fc2.com/blog-entry-228.html

2012年12月10日月曜日

「タロ・ジロは生きていた」の復刻版入手

藤原一生先生著の「タロ・ジロは生きていた」
これは、すでに売ってないかと思っていたら、2004年に復刻版が!
2006年に復刻2刷が出て、この2006年のものを購入。
この感動の話。藤原一生先生を知る上でも、欠かせない一冊と思い、購入しました。

藤原先生が今もここに生きている。そんなことを感じつつ。

2012年12月4日火曜日

藤原一生先生の講演その8

文部大臣からの電話

ですから僕は、インタビューをしながらも「文部大臣杯がほしい!」
って言っていたら、本当にその願いが文部省に伝わって、
ある時、秘書官から電話があって、秘書の方から電話で、「誰それですが」って来て、替わって僕が出た時に
「藤原先生ですか?西岡です」って言うから誰だろうな、と思って。
 まさか文部大臣だとは思わなかったですね。
「明日お会いしましょう!おいでなさいよ。」非常に気楽な声でしたね。
 この時も、私には一つ、。
 あの、神様とか、仏様とか、ということばは僕は避けているんですが、
 っていうのは、日本けん玉協会会長という仕事をやってますと、あらゆる点に超党派でなくてはいけないんです。うちには日蓮宗、天理教、キリスト教、あらゆる人が来ます。それから、思想も。公明党、自民党、社会党、共産党。赤旗新聞にも出ます。公明党新聞にも出ます。ですから、超党派でなくてはいけない。どんな主義の人でも、子どものために尽くしてくれる人なら、みんな友達ですね。
 ですから、私は自民党とか、社会党とか、そういうことは、自分では名乗らないんです。ですから、神様、仏様とかそういう表現を避けるために、「天は」という言葉を使います。

 文部大臣からの電話をいただいた時には、私、自宅におりました。自宅にはその恩師、その本(あかい目)の主人公の先生、恩師は生きておられます。
 これは、私の自伝童話です。作り事ではないんですね。
 それを先生からの依頼で、中学校に講演に行って、夕方に帰るつもりでいたんです。
 夕方に帰ったら、うちの家内が、文部省の電話を聞くだけで、僕は聞かなかったと思います。

 それが何が間違ったのか、教頭先生が3時頃の帰りの切符、急行券を買っちゃったんですね。それで、「あっ!」と思ったけど、それで乗って帰るわけです。

 それが、一つの不思議でしたね。
 天の動きというか、天の命令というか!
 自然の風ですね。

 で、家に帰って、風呂上がって、バスタオルで拭いてたら、
「お父さん、文部省から電話!」
「えっ?」って言って、パンツのまんま拭きながらですね。
 うちの家内はその場に聞いたのを。
 その時、僕はパンツはいて、バスタオルで汗を拭いていたんですね。

 天下の文部大臣杯たるものがね。

2012年12月3日月曜日

藤原一生先生の講演その7

 一番最近ですね、私の感動の運命的なドラマは、雲仙の6日間がありましたけれども、それは別にして、
 文部大臣の直の声を聞いた時は非常に感動しましたね。
 今日のドラマの話の扉にしていきたいと思います。
 ここから本題だと思ってください。

文部大臣杯争奪戦をやってあげたい!

10年間ぐらい新聞を見ますと、必ず最後にですね、
 日本中の子ども達のために、僕はなんとしても子ども達のために
 文部大臣杯をなんとしてもとりたい!
 文部大臣杯争奪戦をやってあげたい!それが願いでしたね。
 で、あらゆる新聞にですね、週刊誌、あらゆる新聞に出ました。
 それから、テレビも徹子の部屋、昼のプレゼント、あのイレブンPMなどあらゆる番組に出していただきましたね。
 普通我々おいちゃんが出るには、こういうのを脱ぎまして、かぶってね、こうやってね引っ張れて行く風景。(笑い)なんかねありますね。代々木警察署に連れて行かれる、そういう時でないとテレビには出られませんね。
 それが、みんな、テレビ朝日の旗のついたすごい高級車に乗せられて、そして、徹子の部屋に出た時に、僕はあの声が未だに印象的に残っているんですけど、。
 始まる前にですね、来て、黒柳さんがご挨拶して、プロデューサー何人かいて、1人とは限ってないですね。
 1人の若い子が来て、「先生、あなたの座っているその布団には三日後には玉三郎さんが座るんですよ。」
 それが何だっていうんですか?バカ!
「ぱっとみたら見えないでしょう?」
 ああそうですか。じゃ、そこに僕は座っちゃいけないってこと?って言いたくなちゃうよね。僕はひねくれてますからね。
 それに気がついたらしくて、
「いやいや、先生、なんとかかんとか、、。」と言ってね。逃げちゃいましたけど。

 頭に来ましたね、僕ね。
 なんだ!こいつ!と思ったですね。
 でっ、あの、そのような感じで、楽しいテレビに出していただいたり、、。

 そういう中で、
 自分の願いというか思想っていうかな、一つの焦点をやりぬいていく、接近していく、突き破って行く、握りしめるっていうかな、キャッチするっていうか、捕まえるまでは、執念深くやっていく。
 まあ、作家ていうのはね、執念がなければ出せないですね。そういうもんなんです。
 執念というのが、大切です。
 あなた方の人生にも当てはまる。

続きは↓
http://kendama65memory.blogspot.jp/p/blog-page.html

2012年12月1日土曜日

藤原一生先生の講演その6

船の科学博物館での撮影

僕が今その風邪ぎみの原因になったというのは、三日ぐらい前ですね。
 読売新聞が突然来て、東京湾に接岸してある船の科学博物館がありますね。宗谷、そこ行って、写真をとらせてくれという、ありがたい話ですから、10月31日です。
 行ってきました!

 まあ、田無からね、東京湾の地まで、遠かったですね。自動車でいくら読売新聞の旗をパタパタといって、気分いいにしてもね、まあ遠かったですね。はるか彼方ですね。
 このカメラマンが凝っている男でしてね。ほんとに凝りに凝っている男で、2時間近く、風にさらされたんです。甲板のところに立って写真を撮らせてくれとか、いろんなあらゆるところで撮りましたね。
 その時に正直、感じたことは、私がタロウジロウの本を書いたのは昭和37年で、ものすごくその遠いですね。昭和37年っていったら、皆さんが生まれたころじゃないかなって僕は思うんですよね。
 うちの次男坊が生まれたのは昭和30年で、ですから、まあ、今それが30いくつですから、あなた方は生まれたか生まれてないかということでしょうね。
 そのころのその宗谷との出会いタロウ、ジロウとの出会い。それがなぜ今ね、今僕にその宗谷までね引っ張りだされるのか、
 「宗谷」っていうと、タロウ、ジロウの頃の方々ね、まだ生きてますね。その方を連れて行けば良いではないですかね。
 なんで今、そこに作家が必要なのか?そういうことを自分では考えないようにしてます、深くは。すべて天の指令と思っております。

 まあそういうわけで、あの、多少体調は崩しておりますが、これから30分くらいご勘弁して聴いてください。

 え〜、あの人の名前、最初に聴いておけば良かったですね。
 また、ぱあと落っこっちゃったのが気になっていると思うけど、気にしないでね。いいじゃないですかね。みんな落っこちちゃってもね。気にしないでください。
 僕が何か始めようとすると、動くんですね。

藤原一生先生の講演その5

「人生の解剖」という題について

さて、今日、これからですね、自分の生きざまを通して、皆さんに、、。
 変な題を考えたもんです。僕もね「人生の解剖」なんてね。「青春の解剖」って付けるのが普通ですね。
 佐藤君、吉本君が家に来た時に、学校の名前が医学なんてついているからつい「解剖」としたんでしょうね。
 で、私は色紙によく「けん玉の美は隣りの窓辺にあり、人の美は心の窓辺にある。自分に厳しく!」と書きます。
 それは、自分にいつもメスと入れなさい。自分の児童文学の場合にもですね、自分にメスを入れろ、という児童文学の講義を致します。よく医学的な用語を使います。

 それにしても今日は変な題をつけたな〜と僕は思いますが、まあ、人のことはともかく、私がたくましく必死に生きてきたいくつかの話をしながら、皆さんの参考になっていただければありがたいと思っております。