2013年2月18日月曜日

1989年12月の藤原一生先生の記事


藤原一生先生から直接いただいた記事です。
特別講演会をするのに何か資料が欲しいと頼んだところ、この記事をいただきました。特別講演のお願いに自宅にうかがった時のことです。
 
19891212日の新聞
日本けん玉協会支部1,000達成
田無の藤原一生会長
愛情注ぎ15
 遊びから競技へ
文部省も後援
海外にも愛好者

 NKKといっても、鉄鋼大手のことではない。「日本けん玉協会」の略称である。かつては正月だけの遊びだったが、いま小学生から大人まで二百万に近い競技人口だ。この競技を十五年かけて隆盛に導いてきた協会本部が、田無市にある。愛好者の支部は全国の学校はおろか文部省の職場にまであり、海外ではアフリカのザンビアにまでおよんで、支部数は現在1,000。たかが遊び、とは言えないような勢いだ。
 協会長は、田無市北原二丁目、児童文学者の藤原一生さん(65)。昭和四十七年の秋、近所で「けん玉」を持ちながら、うまく遊べない子供に教えたことから、けん玉の普及にのめり込む。「小学校の五年まで、しょっちゅう遊んでましたからね。ああこれは伝承させなきゃと思ったんです」
 「けん玉」は海か陸のシルクロードを経て、江戸中期の安永年間には日本に入ったようだ。藤原さんの研究では、船乗りがたいくつしのぎに考え出したもので、当初の形は「猪口の形して、柄あるものなり。それに糸をつけてさきに玉を結びたり」(天保時代のプレイガイド、「喜遊笑覧」)。その後、大正十年に広島呉市の人が現在のような形にしてから、爆発的な人気を呼び、男の子の遊びとして定着したという。
 名刺には「十段」とある。「実際は六段でしょうね」。けん玉の面白さは、「むずかしい遊びだけに、成功したときの感激。あるいは緊張感、集中力」。
田無市の青少年委員として教え始めたころ、腹膜炎で入院。小水とガスが出ずに苦しんでいるとき、「けん玉」と遊んで、苦境を脱した体験もある。「体にもいいのに、なぜけん玉がすたれているのか」、それからしばらく、家人を嘆かせるほどの全国行脚で、普及に熱中した。
 協会の正会員、五千人。五人以上から支部の結成を認める。競技用のけん玉をメーカー二社に作らせ、段位制度を作った。毎年一月に『NKK杯』、五月末に「全日本けん玉道選手権大会」など。今年から始めた少年少女の選手権大会には、文部省の後援がついた。
 千番目の支部は、大阪府立堺工業高校の生徒たち。協会の認定する初段は、「けん」の部分のタテ(中皿)とヨコ(大皿)の皿に交互に玉を乗せる「もしもしかめよ」の歌に合わせた「もしかめ」を二百回できることだそうだ。

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