2013年2月16日土曜日

藤原一生先生からいただいた資料(自己分析)1991年10月


Weekly report(週報)東京田無ロータリークラブ(19911992
平成3(1991)年10月3日発行
 自己分析   藤原一生氏


創作前                                                                    
作家として、ひとこと。
いざ<小説>、あるいは<童話>でも、書く以前はとまどう。何をかこうか、どこを小説の舞台にしようか。主人公は女性がよいか、少女がよいか。テーマは、なンだ。
こうして、まよいの小路に吸いこまれていく。ほんのりと頭に浮かんでいた“モチーフ”も次第にくずれだす。〆切が迫ってきて、いらいらしだす。苦しみだす。これはペンで生きているもの書き<作家>だけの苦闘ではない。皆さんも同じことがいえる。<書く><書かされる>という作業はさまざまな形で不意に装いかかってくるものだ。
このエッセイにしても同じことがいえる。とうぜん、〆切日が指定される。それがプレッシャーの動機となる。
そういう場合、どうしたらよいか。
自分を原点にもどすことだ。俺にはいったい何があるのか、“何をいい多野か”.何を書こう・・・・・・でなく、〔何を書かずにはいられない〕というものへの発見に心を、目をむけることだ。書くものが、現在の自分なのだ。それを今、さらけだせるか否かにかかっているのだ。
創作以前の苦闘はこうして時と闘い、光をみいだいてゆく。
                                             
動機
“けん玉”の世界でも同じことがいえる。けん玉は日本に渡来したのが安永6〜7年(1777年)と嬉遊笑覧という古い本に記録されている。
私が“けん玉”をはじめたのも《昔の遊びを次の世代に伝えよう》という“伝承“活動にすぎなかった。それだけなら、今も、伝承の世界だけで終わっていたにちがいない。
同じけん玉で、同じルールで、日本じゅうどこへ行っても遊べるようにしたい!ぽつんとともった小さな灯のあかりの輪が次第に大きくひろがり、日本けん玉協会の誕生となり(昭和50年5月5日)、〈タイム競技〉とかさまざまな“けん玉におけるスポーツ用語”が生まれ全国へはばたいていった。1991年〈平成3年〉10月5日発行の“けん玉通信”を見ると全国の支部数が1,228となっている。
田無で、ひとりでポツンをはじめた会が今や200万人の大集団となり、いま社団法人化に作業をすすめている。田無は、その、世界へはばたく日本けん玉協会の発祥の地として、日本じゅうにその名を知られている。

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